アンパンマン再考6000字~実際的な政治的寓話として~

暴力的な欲求への鉄拳制裁と寛容。そう、アメリカである。

昔、大学の旧友が唐突にアンパンマンについて触れたことがある。大学の文化系サークルよろしく、通称ボックスと言われる活動部屋においての、何気ない日常的な風景でなされた、サークルとう媒体を介してでしか存在しえなかったはずのイレギュラーで疎遠な関係における、非日常的で外面全開の上滑りした会話。

「アンパンマンのテーマソングで『愛と勇気だけが友達さ』って歌われているじゃない?あれって、すごい孤独じゃない?」

私は、その時までその人がアニメなんてものに関心を持つなんて思ってもいなかった。だから、内容よりももそちらに気をとられて、少し感情的に「そうなんだよねっ!」と賛同したのをよく覚えている。

その後、その人はアンパンマンのことどころか、アニメのことさえ口に出すことはなかった。ただ、私はずっとこの自らの対応をひどく気にしていた。その人が聡明な女子大生で私が冴えない男子大学生だったからではない。好かれたいからとか、知的に見せるためとか、ましてや未来のデキるビジネスマンとしてもっと話を広げるにはどうすればいいかとかではないのだ。全くない。アンパンマンの話なのだ。アニメの話なのだ。

私はもうすぐ不惑を迎える。あの論争とも言えぬ会話における不完全燃焼な敗北感からおよそ20年が経つのだ。別にその人の言に反論したいわけじゃないが、とにかく不完全燃焼なのだ。だから、今、アンパンマンを再考したいと思う。

日本人ならば、一度はアニメのアンパンマンを見たことあるのではないだろうか。頭がアンパンの形状をし、その背にはマントを背負い、腹には笑顔を自らの紋章とした、人型の、一応生き物が、正義を謳って世界を警邏し、見つけた揉め事を仲裁して回るという、ハートウォーミングで子供向け番組然とした子供向け番組である。

アニメや物語、特に子供向け番組にはよくある話だが、このアンパンマン、その世界が少し風変わりである。ご覧になられた方なら、すぐにお気づきになると思う。食べ物が擬人化されたキャラクターが多く、みんな食べ物を共有した和やかな世界観である。キャラクターは自らのモチーフとなった食べ物を生産、共有することを自らの役割としていることがよくあり、つまり、働いているように見えるのだ。しかし、報酬どころか貨幣をやりとりしている風景を見たことが全くない。そう、このアンパンマンの世界観は、貨幣経済が否定された共産主義 的な世界である。そしてさらには、諍いが少ないように見え、兵器や暴力の否定に基づいた、ユートピア的な世界観である。

そのなかで欲望のままに略奪を繰りかえし、科学技術によってえられた兵器をその手段とする欲望の虜、バイキンマン。そして、その欲望と科学技術手先たる生き物の情動の最大の原因となっている、ドキドキさせるよドキンちゃん。彼らの存在は、独特のユートピア世界を警邏するアンパンマンの存在価値そのものであり、主な職務遂行対象となってしまっている。兵器やお金という対立や格差を忌避するユートピア世界において、科学技術の粋を凝らしたバイキンマンの欲求の所産を、パンチひとつで粉砕、かつ対処できるアンパンマンの実力は、正義を標榜する、他の同種の生き物群を圧倒するものである。そしてなにより、アンパンマンには、ジャムおじさんとその従業員、そして移動式厨房たるアンパンマン号が付いている。その力の根源が所詮頭部のパンであるという点を否定できないアンパンマンにとって、この移動式パン厨房は、その圧倒的な暴力装置を保管する兵站そのものである。そう、アメリカである。この番組の本質たるアンパンマンそのものが、それが住む世界の理想を打ち砕いるのだ。補完しているとも言える。しかし、彼らがその暴力装置により押さえつけているのは、科学技術、欲望、そして、恋である。そう、人間性そのものなのだ。これは、実に皮肉な話である。ただ、このアイロニーこそがアンパンマンのテーマであり、子供に伝えたいこととも言える。そう、これこそが現代社会なのだ。いや、人類社会なのだ。我々、つまり、文明人を規定するものは、すべからく文明であり、その発端たる欲求であり、その目的かつ手段である労働である。そう、バイキンマンである。ホッブスは言った。社会の原始状態は闘争状態であると。これである。私は社会の原始状態など知らないし、そんなものは時間軸上、歴史上で明示的に存在するものではなく、抽象的な思弁なのであるが、我々は今、容易にそれを見ることができる。そう、アンパンマンである。これは悲しいことなのだ。恋に恋い焦がれ。欲望のままその知性と技術力を略奪のために使う、既視感ある生き物、そう、人間、いや、バイキンマンが、圧倒的な拳、量力装置の前に敗れ去る。その世界の数少ない人間キャラクターたる、ジャムおじさんとその従業員を背後に控えながら、である。

あの人たちは当たっている。この番組はバイキンマンに感情移入させてしまうものである。そして、それを打ちのめし続けなければいけないアンパンマンは孤独なのだ。

問題はそれにとどまらない。このアニメは、やなせたかしの絵本を原作としており、アニメもやなせたかしを原作としても問題ないものであると思う。最大の問題は、やなせたかしがこの作品に込めた思いである。

この作品が戦後日本の食糧難をその原体験としているのは容易に推定できる。アンパンマンのなかで描かれるユートピア的な世界観は、マーシャル・プランよろしくコッペパンを大量に供給したアメリカの経済力と軍事力―すなわち、謎の供給力を保有するアンパンマンの兵站たるジャムおじさん ― を背景に、制度とは矛盾しながらも国家の暴力装置として存在する孤独な自衛隊、つまりアンパンマンを抱えた、資本主義と社会主義の間の子のような、戦後日本そのものである。

いや、違うんだ。そう言いたい方は多いと思う。アンパンマン世界は人類社会が抱える矛盾を表しているだけであり、実際の社会にそのまま符合させるのはナンセンスである。人間性の根幹でもある欲望が暴走の果てに毎回略奪を生むという悲しみと、平和を維持するためとは言え所詮あの生き物はどこまで言っても暴力装置でしかないという孤独。ただこれだけである。しかし、しかしである。ジャムおじさんは暴力装置の兵站としての役割を明らかに担っており、暴力装置の製造装置という役割においてだけなら、バイキンマンと何ら変わることがない。そして、アンパンマンも圧倒的な力において世界の揉め事をその力でねじ伏せるという点においては、バイキンマンと遜色ないのだ。

それでは言葉足らずだ。ジャムおじさんにもアンパンマンにもあって、バイキンマンにないものがある。それは、職能や労働であり、社会的な役割である。そして、何かあるたびにパンやら何やらを他の登場人物たちを分かち合うという精神である。お金はないのだから、公共の精神と要約してよいであろう。

この公共の精神は、バイキンマンの物欲や、行動の原因であることが多い恋心、果てにはその手段になることが多い科学技術に対する偏重に勝るものであろうか。否。そうではない。心情の軽重を問うているのではない。その手段にある。バイキンマンの問題の根幹は、その世界の住人から生産物、それどころか彼らの頭部にある丼ぶりの中身などを奪うことにある。それも交渉なしで力づくでである。しかし、この収奪、時として「いいよ」と許されることが多くある。しかし、バイキンマンの止まらぬ欲望に耐えかね、そのユートピア世界の、もうひとつの空を飛ぶ暴力装置たる、アンパンマンに助けを求める結果となる。超大国や超大手企業―一言で言えば帝国主義そのもの―の間で揺れる社会的弱者そのものである。

いや、これが駄目なんだ。だから、このバイキンマンに同情して、アンパンマンが暴力装置にしか見えなくなるんだ。アンパンマンが提示しているのは実際の政治的な寓話なのではなく、人類社会の普遍的な話なのだ。実際の帝国のみを中心とした社会現象や歴史的事績のみの例示とするのではなく、人類社会の普遍的な価値の普遍的に起きうる相克として、みる。人間の本質たる恋の成就を目的とした、科学技術を駆使して略奪するという手段の正当性に悖る犯罪的な行為によるその目的の達成を、同様に、兵器を許さないユートピア世界でありながら、無限兵站に支えられ、希少価値のある『勇気の花』をその内燃機関とした、 超越的な力を保有する、まさにその世界における超越論的な暴力装置としての存在による、軍事力の行使―このことだけをとってみれば、まさに我々がよく知る帝国主義の鉄拳制裁そのものなのだが―によって粉砕する。この悲しみの構図こそが問題なのだ。言うなれば、アンパンマンという作品が指摘しているのは、常在細菌のような問題である。よくあるのだ。

しかしながら、我々がこの子供向け番組に、”実際的な”政治的な寓話としての側面を感じ続けてしまうのは、力に対する反発からに他ならない。収奪は許されざる暴力である。けれども同時に、それを押さえつけるために空を飛び続ける圧倒的なパンチ力のあるパンもまた、力である。まさに現代社会において国家をふっ飛ばすことができるアメリカを代表例とした国家権力、いやさ圧倒的な帝国主義そのものである。さらにこの寓話をもの悲しくするのは、この力のぶつかり合いのなかで、バイキンマンの行動の目的が何気ない恋心という点である。これもまた両義性を感じさせてしまう。長い歴史や多くの犯罪において、痴情のもつれや恋心がその動機となった例は、枚挙にいとまがない。書いていて恥ずかしい表現であるけれど、実際に多いのだからしかたがない。そう?まぁ、そして、同様にこの恋心は人ならば誰しもが持つ何気ない気持ちであり、行動の目的となるのは普通の話である。この普通の感覚が常軌を逸するとき、その存在と保有する力が常軌を逸するものに打ちのめされる。これもまた普通の話である。

こうした常在細菌のごとき普通の話が、現代政治的な事情を感じさせるのは至って普通のことである。作者自身も戦後日本の食糧難を原体験であると言っていた、と思う。だから、お金と武器を廃したユートピア世界において、そのユートピア論理を超越する力がアメリカを代表例とした無機的で巨大な帝国主義的な何かを想起させるのは自然な話であるし、個人的な情動で手段の正当性を蔑ろにして収奪の極みを尽くすのもまた、有機的で生き生きと見えてしまうものである。

このように書くと、この手段の正当性を蔑ろにしている輩、バイキンマンは非常に動物的であるように見える。けれども、少し控えめに書いてしまうと、恋い焦がれた科学技術に秀でた秀才が、その恋を成就するために、その知恵と技術の粋を凝らして悪戦苦闘する、というふうである。これは人間そのものであり、文明社会において経済活動や生産活動、文化的な活動に精を出す文明人そのものの姿である。つまり、この線で考えれば、恋や科学の追求を代表とする主体的で文明的な活動を 圧倒的な帝国主義が ねじ伏せるディストピア世界そのものである。

これが冷戦が終結した頃にターニングポイントを迎えることになる。92年、アニメに登場した、メロメロパンチでお馴染みの遅すぎたヒロインキャラのメロンパンナと、次いで94年に同じくアニメに登場した、良心回路と悪玉回路を持ったロールパンナである。悪意の象徴たるバイキンマンに唆されやすい、邪な判断力を持つダークヒロインと、そんな姉を一途に助け続ける愛に溢れたメインヒロインの登場は、それまで他者への偏執的な愛に溢れかえっていたドキンちゃんと、同じくドキンちゃんへの偏執的な愛に満ち、長きに渡り凶行を繰り返し続けているバイキンマンの、愛情を相対化させるものに他ならない。これでバイキンマンへの過剰な感情移入と、アンパンマンの孤高さが和らぐものと、当時の制作者や視聴者が思ったかどうかは定かではない。

幸か、不幸か。結果は作品に愛が溢れかえることとなった。バイキンマンの周りのキャラクターが増えたこともある。ドキンちゃんに恋い焦がれるホラーマンと、バイキン城のわがままお嬢様コキンちゃんである。この結果、バイキンマンとドキンちゃん周辺は、以前よりもまして家族的で賑やか雰囲気になってしまった。愛である。少なくとも達成されたことは、ツンデレすぎるバイキンマンとドキンちゃんの関係が少し目立たなくなったことであろう。が、ポスト冷戦後の多極化の世界においても、作品世界の集中線は、善悪の判断で揺れるロールパンナと、そんな姉を助け、そして助けられ続けるメロンパンナの関係に猛烈に向くことになる。

これは目新しさやケレン味を好む大衆性だけがそうさせるのではない。これもまた作品初期におけるバイキンマンの欲求の暴走と、力の衝突の構造と同様に、文明社会の業を我々に諭し続けているのである。メロンパンナのメロメロパンチのように、何度も何度もしぶとく、可愛く。悪行に走ってしまう愚かで不完全な生き物が、弛まぬ愛情で何度も立ち直り、許され、そして、また、悪行を繰り返すというもの悲しい喜劇は、文明社会における愚かな人間そのものである。そして、例のごとくであるが、この悲喜劇の連鎖もまた”実際的”すぎる政治的寓話として理解することが可能である。価値の多様化した個人の迷走と、その個人への寛容さ。やはり、アメリカである。帝国主義である。

通例、帝国に上り詰める存在は、寛容さや自由さをその軸としているものである。ローマ帝国もモンゴルも、そしてアングロサクソンもだ。そのため、多くの民族、国家、組織、言うなれば多様性を内包することとなる。弱き個人は、欲求の虜となり、大衆世俗的な方向へ流されやすい。そう、ロールパンナは帝国に生きるマイノリティそのものなのだ。これ以上は言わせないのでくれ。そう、見たまんま、クイアだ。そして、それに弛まぬ愛で語りかける妹、メロンパンナはマイノリティに寄り添い続ける、多くの私たちだ。

というより、これはものは言いようというやつで、普通の話である。 そもそもアンパンマンが 、ごくありふれた人間社会の偏在する問題を内包していることは、ほとんどの視聴者が言語化せずとも理解できていることであろう。別にもっと評価されるべきと言うつもりもない。こうした種の番組では稀有なほど作品のテーマが時代を超えて浸透しているのではないか。私がここで再考したいことは、このアンパンマンが、文明社会における人間の欲求は、原動力かつ、人間性そのものでありながら、動物由来のものでしかなく、圧倒的な力と圧倒的な愛でしかそれが解決しえない―そう、アメリカである―という、偏在化した問題を、我々に弛まぬ愛で語り続けている―そう、メロメロパンチである―、そんなありふれた啓蒙的なコンテンツであることに他ならない。

こんな当たり前のことをわざわざくどくくと再考しなければならないなんて、 善悪で揺れすぎ悪行を繰り返すロールパンナな所業である。だとすると、私は20年前、あの人に ごく当たり前な メロメロパンチ をお見舞いされたのかもしれない。さすがにロールパンナにメロメロパンチはしないのだが……。

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投稿者: Hiyokomaru

こんちはっ! こっそり頑張るSOHOライター、ひよこ丸だよっ。 こう見えても、もう不惑のオジサンなんだ(汗 いつか立派な雄鳥ライターになるんだっ!

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