男はアプリオリに男であるか

まず前提として生物学的には男と女は一部の例外を除いて概ね排中律的な関係にある。まぁ、染色体、生殖の関係でどちらかに表面的になるということだ。これは生物学的というよりも社会的なものであることもある。そして、言語的、歴史的には男と女は排他原則的な単語として設定されており、使用されてきた。

こうした前提のもと、「男はアプリオリに男であるか」を検討したい。

第一には、生物学的に生命は女性や雌を基本としている。性別のない生物もあるのだから、議論はあるだろうが、人では基本雌である。染色体Yを持てば、男になる。つまり、アプリオリには男ではない。

第二に、歴史的、社会的な「男」とは通過儀礼、成人、職能、家族形成、社会属性によってなっていく。「漢(おとこ)とはこういうものだ」、「漢(おとこ)ならやってみろよ」的な言い回しである。つまり、男、というより漢とは社会的なパフォーマンスの行使と表現によってなっていく。つまり、男はアプリオリには男ではない。

第三に、これは初歩的な言語ゲームであって詐欺まがいなのだけれど、対象を指す意味内容を「男」と定義されて「男」となるのだから、「男」はアプリオリに「男」ではない。ちょっときつい。

第四に、全ての穴を引き受ける検証である。生物学的に例外はある。そしてそれが認知されるとともに社会的な「男」もまた崩壊する。それはそもそも存在する「男」の定義を侵食する。つまり、男はアプリオリに男でない、というよりも、男でなくなる。

さて、次なる問題はこの命題の解が「女」の有り様を侵食するかどうかだ。かねてより、生物学的、言語的、社会的には女と男は排中律的、排他原則的であったはずだが、これが男同様違うとなるのであれば、女も違うということになる。ならば、「男はアプリオリに男でない」からといって、「男はアプリオリには女」とも言えないし、対偶であるはずの「アプリオリに男でないことはないなら男でない」とも言えない。あれ?もとの命題が真なら対偶も真だよね?「アプリオリに男なら男は真の傑物、漢になる」のかもしれぬ。やっぱ違うよね。じゃぁ、全部違うんだよ。ごめんな。

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