リベラルデモクラシーの残り香が舞い散る夜に彼女が逃げ出したのはまさかの夜逃げか恋に旅するマロンか

かつてリンカーンがゲティスバーグで演説した日、彼はその政治スタンスをわずか3分で宣った。時に1860年、アメリカが世界に覇権国として躍り出る少し前のことであった。その時の最後の名句は、つとに有名である。“……government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.”

この名句の“of”に関して去る東方の非民主的な国の英語人は『これは所有格なのか、目的格なのか、由来なのか』と的はずれなことを言っている。そもそも西洋はギリシャ以来代議制を採用することが多く、今でも多くの知識人が『民主主義は直接民主制しかありえない』ということが多い。そして問題は、自助か公助か、私事か公共かという切り口でしかない。つまり、このofはbyとの関連性でしか存在しない。問題はthe peopleである。それが全くの同値か一部か、そしてforとは何かだ。ホッブズの名句”万人の万人に対する闘争”が想起される。すなわち、奴隷解放であり、それにより完成される代議制民主主義の主体者とその公共サービスの対象たる主体者が唯一“the people”のみという一点につきるのだ。ofなんて当たり前なのだ。だから最初なのだ。所有格であろうが、目的格であろうが、市民でしかない。重ねていうが問題は彼らが直接か間接か、すなわちby。そして、自助か公助か、すなわちforである。非常に自由主義的な警句である。

この自由主義の少しピンぼけした点こそが今まさに揺らぐリベラルデモクラシーなわけだ。奇しくも昨今ヘイトが吹き荒れ、肌は荒れまくり、大小様々な感情がこの数十年で増長したフロンティアたるインターネットに吹きこぼれ、オナベは吹き出物だらけの顔をいつもあくせく洗いまくり、増大しきった市場と行政サービスはアテネやスパルタの時代とは程遠いほどの規模によってインターネットにより直接的な交流が増えているにも関わらずに社会の距離感を遠大にさせてしまった。あぁ、君との距離感はもうすごく離れてしまったね、レオニダスや。私はあの頃の君の年齢をとうの昔に過ぎしてしまったよ。遥かなるダーダネルス=ボスポラス海峡の彼岸に広がる大地は、果たして貴方が夢見た悠久たる黄金色の絨毯であったでしょうか。それとも貴方の勇敢さを散らせた奴らの如き荒々しくも飢えきった荒野であったでしょうか。このようなところで無聊をかこい、贅肉を気にして生きている今の私には無用の心配事でございます。その刹那、彼女は上体を弓なりに斜め後ろに仰け反らせながら、服の上からむにっと腹を触るのであった。うふふ。

彼女の乗る荷馬車は今日もガタンゴトンとなだらかに波打ちながら砂利道の路面にできた先人の轍をゆく。時として荷馬車は大きく揺れ、彼女の大きなお尻を浮かせることに成功する。硬い大きな石の上でも越えたのであろう。この道をゆく先人もまたその石の上を越え、そのお尻を浮かせたのであろう。侮りがたし。まだ見ぬ石。その石はその上を越えるお尻に一度も事前に認識されることなく、ほとんどのお尻に反抗し、少しばかり重力に反することに成功し続けている。あぁ、石ころでさえ大いなるものに反抗している。なのに私はなぜかくの如き窮状に甘んじているのか。彼女は、その無言の反抗をするアノニマスな石の面構えを確認しようと、後ろを振り返ろうとしたがやめた。わかるわけがないのだ。もうあの一瞬浮いたお尻は荷馬車の硬い座席にどっしりと密着している。もうあれから随分経った。石の面構えなど、荷馬車の上からどのように見ることができるであろうか。いや、見られまい。あの石はそのような存在なのだ。そして、その気丈な反抗心から騎乗する者たちに少し許され続けるのだ。侮りがたし。梵天丸もかくあらん。

彼女の硬い決意を嘲笑するかのような不吉な夜の森。ちょうど居並ぶ木々が避ける中空からその顔を覗かせる月明かりは、それをしっとりとそして冷静に彼女を視姦していた。荷馬車は森を抜けた。ようやっと行った。それとともに潮の香りがほんのりと彼女の鼻孔に舞いよってきた。逃げ延びる木曽義仲と巴御前もこのような気持ちであったのであろうか。当時よりも幾ばくも拓けた港町には、夜だというのに数多もの荷馬車が行き交い、船着き場あたりには船の乗降客で賑わっている。頃合いもあってか、町のそこかしこから夕餉の匂いが立ち込めてくる。なけなしの懐でも腹の足しになるものでも食べられそうでもある。けれども、荷馬車の御者に手間賃を与えて、これからの不安もある。後ろ髪を惹かれながらも、周りの喧騒や活況には目もくれずに、船着き場に急ぐこととする。これからすぐに乗れる船はあるだろうか。船を探していると、向こう岸の船着き場が視界に入る。ぼんやりとした船の提灯や対岸の灯りが人だかりの中でも寒々としたこちらの心持ちを暖かくする。なけなしの銭を握りながら、目の合った船頭に声をかけた。

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