オリンピックはやはり政治の祭典であるのか。それとも、実はツンデレカップルな経験主義者たちの犬も食わないというアレなのか。では、子供は新たなる極東いやさ、極西太平洋の秩序なのか。そのとき、雨傘に賭した自由主義者たちはどうなるのか。彼らよりも、両者に嫌われているはずのイスラム教徒であるはずのウイグル人のほうがアメリカン人には親しい存在なのか。

日本では古今未曾有の東京オリンピック存亡の危機を大友克洋先生の大作“AKIRA”となぞらえているが、何言おう、この事件は、世界史的にはスペイン風邪と国家社会主義の氾濫と、枢軸同盟結成、さらに、折しも拡大の一歩を辿っていた大戦などにより、実際に立ち消えになった消えた東京オリンピック1940と擬えられているのが必定である。形式的には東京オリンピック1940の中止は日中戦争であるし、あまり歴史的に日中戦争初期を第二次世界大戦の一部と断じることは日本ではないのだけれど、現在から遡及して判断するに“大戦”と断じても何の問題も生じないと思われる。

ともかく、この東京オリンピックを鴨にしたような米中の夫婦喧嘩が何とも微笑ましくニュースフィードで踊っている。なぜ微笑ましいかと言えば、開催のために投資をした開催国側の人間からしたら、ようやっと“意地でも開催するんだ”というのが分かってくれたと思える象徴的な事例であるからだ。

けれど、それよりも大きい事案はきな臭い擬似的な国際政治風味の戯曲である。冷戦の渦中として政争の具となってしまったミュンヘン、モスクワ、ロサンゼルスオリンピックかのように、東京オリンピックと来る北京冬季オリンピックが取り沙汰されている。

またしてもである。コロナは事実であるからして、不参加がある程度あるのは予想できることでもあるのだが、それを何故“米中冷戦”と模す必要があるのだろうか。歴史とは過去に対して遡及的演繹的に意義を当てはめてしまいがちである。これを逆手に取れば、将来に対して敷衍したい意義に則って主導し、現実を再構築すればよいという話になる。これこそ、弁証法的で闘争的なマルクス主義や毛沢東主義と、追体験と慈善好きな経験主義の馬の合うところである。では、バイデンと習近平、いやさ現代ほど情報、法、行政システムが緻密になってしまった国家のステイトメントを個人名で語るのはナンセンスかもしれないが、これから語ることを踏まえれば、やはり個人名で語るのが良いと思われる。

彼らはいくつかの動機に基づいて主体的な主演を演じ、状況をコントロールしようとしているのではないか。まぁ、超大国の国家元首なのだから当たり前なのだけれども……。

まず、第一にトランプ以降、いやさ、オリンピックになぞらえれば、ロスオリンピック1984前後から顕著となった資本主義の共産主義のみならず国家、政治、文明全般に対する優位性の確立のためである。なによりも、トランプ以降はその背後に半ばはっきりと、そして半ば自演的にリバタリアン富裕層が見え隠れするようになった。これはあまり政治の情報が国外に伝わらない(私が関心ないだけかもしれないが)中国でもなんとなしか習近平の固まった笑顔で伝わるようになった。フューウェイや、孫正義の謎の存在感である。

そもそも政治なんてものは公共政策や金融、税制、刑法やGewalt Apparatの管理が仕事である。だから、経済や史上に振り回されるのは常であるが、なんとも此処しばらくの戯曲“米中冷戦”は戯画的である。何してんだ?シェア分け合ってるだけじゃないか?紛争とか興味ないのかか?そうなのである。カシミールも、コーカサスも朝鮮半島も、挙句の果てに破壊尽くされたはずのアラブ諸国の将来も、米中冷戦の話題にはならないらしい。では、彼らの関心事はなにか。そう、シェアである。そう、彼らの国内主要産業の確立と伸張のために、競合であり、下請けと成り果てた,香港、台湾、韓国、日本の“ポーランド分割”である。だから、あそこは全く問題にならない。そう、北朝鮮である。そして、この疑似冷戦を世界の疑似分水嶺とする、それも政治主導でしたいというのが、おそらく彼らの目的である。これが第一の理由である。

けれども、そのような極めて私的な経済市場の分割が国際政治の分水嶺に直ちになるのは難しい。基本的に、現在の分水嶺は資本主義と共産主義でもなく、単体の超大国主導でもなくなりかけている。現在はむしろ、個人主義的で功利的な自由主義と、秩序や共同体、合議制を重んじるリベラルデモクラシーの対立である。であるからして、金持ち対貧乏人、新しい個人主義的な金持ち対ドメスティックで国家よりの金持ちの対立である。そして、最も大きい分水嶺がある。共産主義国家の政治政体が歴史的敗北を喫したからと言っても、帝国主義的な国家や企業の経営形態による被害が是正されたわけではないという点である。むしろこれだけであり、この問題に対応している両岸の人間たちがむしろ、実際の主演プレイヤーとも言える。彼らを敵にせず、いかにして世界の分水嶺を政治的な米中によるトルデシリャス条約へと持っていくか。それはあの大航海時代や帝国主義時代と同じである。そう、第二の理由はスケープゴートとしての偏愛的ナショナリズムに対する啓蒙という、悲しいまでの動かざる文明境界線の復活である。日本列島など東シナ海や、ダーダネルス=ボスポラス海峡、スエズ、パナマ、ウラルやコーカサス、ヒマラヤである。

なかでも移動通信技術やデジタルデバイスと資源(もしくは純粋に宗教かもしれないが)がおそらくアイコン化されて共通認識を得やすい分水嶺として選ばれているのではないかと思われる。しかし、なによりも問題にしたいのは、昨今の米中政府の芝居がかった喧嘩である。超大国同士は滅多なことでは衝突しない。これは大英帝国とロシア帝国、同じく英仏、そして、米ソでもそうであった。今も中印、中露がそれである。なかんずく、ここまで人口が肥大化し、ここまでハイテク化した社会、そして、そもそもが経済問題を世界的分水嶺としてそれを政治主導にしておきたいというエロ爺の我欲が発端である。おそらく、周りになだめられてイヤイヤ抱き合って、周りにホッと肩を撫で下ろしてもらいたいのである。リバタリアンにとられてしまった元帥杖を取り返したいのだ。だから、急にイスラム教国家が争点にならなくなった。むしろ、アメリカ政府は歴史的にイスラム教徒や一部のイスラム教国家へ態度を固くし続けれているのに、テロとの戦い当時は国内のムスリムさえ、拷問に掛けていた可能性があるのに、テロリストや反政府主義者もいるかも知れない中国国内のウイグルを非常に心配している。本当に迫害や同化政策がある可能性があるので、問題意識そのものは間違っていないが、彼らの前に米国内やイラクやアフガンの善良なムスリムを助けては如何だろう。これこそ、受益者負担を第一に掲げる国家の真の姿である。あぁ、愛しのリベラルデモクラシーよ。いずこ。

ともあれ、渦中は香港、台湾のように見える。自由主義者という言葉は厄介である。彼の香港の自由主義者は哀れである。けれども、そもそも自由主義者は資本主義と結びつきやすく、自国市民優先や愛国とも結びつきやすい。まぁ、所有権である。だから、自由主義者がどのような人たちであるかは人にもよるけれど、市場という観点でみた場合、どうなるのかはなんとなく予想できたりする。そこで必要になるのだ。それこそ犬も食わない夫婦喧嘩を世界の大喧嘩のように見せ、その結果できる愛に溢れた社会の落とし子が必要になる。そう、迷走し斜陽しかつて帝国となりかけ、両国の峨眉を推戴しかけていたメジチやハプスブルクの権威失墜とレコンキスタの達成である。あぁ、スパイダーマン。あぁ、三国志よ。君たちはどう生きるか。

それはそうと、かつて北京オリンピックの際に、中国の名僧チャン・イーモウはVR花火でオープニンセレモニーを彩った。実際のショー、それも歴史的な話題にフィーチャーした、ダニー・ボイルのロンドンオリンピックとは対称的である。そして、オリンピックの式典を印象的に、かつ虚偽的に彩ったのは、かのベルリンオリンピック1936である。白い鳩をきれいなイメージで大々的に印象的に扱ったのはあの祭典であり、現在の詐欺的なマスコミの手法を数多く生み出したのも、彼らゲッベルスとレニ・リーフェンシュタールである。時間的空間的に連続していない観客の“表徴”と歓声を、それらが本来向けられていない対象に対して平気で扱うようになってしまった時代の幕開けであった。そう、マスコミによる政治扇動と現実の歪曲化の象徴的事例であった。

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