『ペット2』,Illuminationの提示するポストアポカリプス的な現代における希望

『ペット2』を鑑賞したんだ。なんとはなしにいつものごとくにポチったんだ。朝起きてトイレと洗面を済ましてから、電子ケトルで湯を沸かして机の上にある安物のラップトップPCの電源をオンにする。化粧水やらで通過儀礼的かつ自己満足的なお肌ケアを済ませながら、同じく習慣的機械的に動画サイトを表示させる。少しだけ意識を電子ケトルにやりながら、いつ食パンを用意しようかとか、そろそろコーヒー豆を漏斗に用意しておこうかなんて思いながら、目はうろうろと映画やアニメを探している。そんなわけで何の深い意図もなく『ペット2』をポチったんだ。1作めの『ペット』やミニオンズシリーズを見ていて面白いと思ったからというのもあるけど、どれもそんな激賞するほど好きなわけじゃなかったんだ。この『ペット2』を見るまでは……。

ここでペット2のあらすじを云々はしない。ワンコロが人のように喋って右往左往のプチ冒険活劇だ。これだけ言うと、ありきたりなハリウッドのアニメーションアニメを想起させる。代表的なところではトイ・ストーリーシリーズやら、モンスターズインクやら、ディズニー作品やらがそうだ。こうした作品の憎らしいところは、CGの出来と非常に愉快な動的ぶりもさることながら、なんとも可愛らしい克服劇であるところだろう。ジブリだとやれ働けだの、他の日本アニメだと戦うだの戦いたくないだのと、意味不明な問答が中心的話題となる。そらぁ、新海誠に負けるわけだ。なんであんな男の子青春を1,2年に一度目の当たりにせねばならないのか当方には全くわからない。

このペット2も例のごとくのアメリカ的な克服の精神を一応は前面に押し出している。一家にできた人の赤ん坊―この点である、正にこの点においてである―にとってふさわしい見本たらんとするために主人公の心配性でけっこうへっぽこな犬マックスは奮闘するわけだ。この作品も主要キャラクターそれぞれに一応において、自らの未熟さや弱さとの対峙というのがあり、これが終局の囚われのホワイトタイガー救出の物語へとつながることになる。ちなみに、日本アニメだとどうしても“敵”という構図になるが、アメリカ作品では実写やアニメーション問わず、悪意や弱さがフィーチャーされる。私見になるが、これはアメリカがキリスト教だからというよりも、日本が未だに自らの共同体を閉ざされた安心できるムラ社会であると認識していることからくるカール・シュミット的な友敵理論から抜け出せていないからに違いないと思うのだが、まぁ、この点は今回スルーする。

でだ。秀逸なのはこの一神教的な自らの弱さなり欲求なりと対峙するという点ではない。そんなの大抵のよくできた作品なら垣間見ることができる側面である。この作品が秀逸なのは、ペットであることに甘んじている彼らが家畜から強さを学び、サーカスに囚われた虎を救出するという、鼻で笑ってしまうほどの喜劇的な構図に他ならない。トイ・ストーリーの世界も人とは違うオモチャの世界を見せた作品であった。あれは人の知られざるという意味では閉ざされた世界だったが、実に躍動的で、実に広範囲に―これは映像的にもである―開かれた世界を動き回る物語であった。しかし、これは移動距離もたかが犬、それもかの名犬のように長距離なんて無理な飼いならされた犬ばかりなのだ。だから、狭い。今回は前作と違い、飼い主の田舎に帰省するが、それも車に乗せられて、彼の地でも家畜が動き回れる狭い範囲内しか移動しない。なんと狭い世界なのだろう。さらに人とは話さないが、人がそばにいても犬同士で話すという設定である。ちなみに野生の獣とも会話できないようで、これの指すところはトイ・ストーリーのように黙って動けない振りをしているのではなく、彼らの内のみでの意思伝達手法が作品上便宜的に英語になっていることに他ならない。あぁ、なんと狭い世界だろう。

この狭い世界で彼らはペットの地位に甘んじ、家畜の番犬から番犬の振る舞いを学び、相対的に苦しい立場にいる虎を救出しようとする。一見、美談でハートウォーミングに見えるこの物語は、終始“ペットの犬はペットである”という悲しい一線を超えられないことを常に主張し続けている。この点は、広い世界をオモチャだけで動き回っていたトイ・ストーリーとは本当に一線を画している。視線もトイ・ストーリーは小さなオモチャに合わせた大きな広い世界であったが、犬とおもちゃという大きな違いはあれでも、このペットでは、人よりも犬より程度の視点でしかない。つまり、犬であることを徹底して意識させるのだ。あぁ、そういえば1作めの物語の焦点は、今作で道化役となったスノーボールを首領とする元ペットの野良集団であった。そもそもが題名がペットなのだ。トイ・ストーリーも題名にオモチャと冠されているが、それは流石に彼らがオモチャでしかないに他ならない。しかし、『ペット』の彼らは本来動物である。ペットは彼らの言ってみれば階級にほかならず、犬や動物という生物や物質としての区分を指し示すものではないのだ。

ここで想起されるのがこの制作会社Illuminationの看板作品たるミニオンズシリーズである。意味不明なニョロニョロとしたパスタかバナナかとも思われる、サロペットジーンズを履いた人語も解さぬ謎の生き物ミニオンの集団をその物語の中心付近に据えた作品群である。中心付近というのは、シリーズの代表作は主人公が人間の泥棒でミニオンズは道化集団でしかない。想像上の生き物や動物の擬人化を作品内に取り入れた物語は多けれども、このIlluminationの作品群は徹底してそれら生き物と人の区分を提示し続けているのだ。彼らが示唆するものは何なのか。そういえば、こうした子供向けCGアニメーションの嚆矢となったのはスティーブ・ジョブズが関与したPixarスタジオによって送り出されたトイ・ストーリーであった。この作品もなんだかんだで、オモチャはオモチャなのだと強調してはいるが、明確に自意識と主体性を持ち、それなりに自由に世界を動き回っていた。あの作品が送り出されておよそ25年の間にCGアニメーションは、かくも子供や視聴者に明確に現実的な生物学上や物質上の区分を提示しなければいけなくなったのか。

これは2つの示唆を与えてくれる。1つ肯定的に描かれる対象がミニオンズやペットや家畜という“飼われている者”ではあれでも、サーカス団のような“酷使される者”なければ、野良集団のような“捨てられた者”ではないことである。

2つには、ミニオンズの言葉は視聴者どころかミニオンズ以外の登場人物一人も一語さえ理解できず、ペットたちも人と喋ることはない。生きていないオモチャの振りをしていたトイ・ストーリーとは明確な違いであり、さらに、奇想天外なストーリーではあるが、ミニオンズもペットたちも超然としたヒーローではなく、1つの小さな生き物でしかないという点である。

後者に着目すれば、現実的科学的な視点を喪失させないという、やはり子供を意識した作品らしいスタンスにも受けとれる。しかしながら前者も加味すれば、これは子供というより現代人全体に向けた示唆以外の何者でものないのではないか。これは我々ではないか。これはジブリやギレルモ・デル・トロの作品群と似た、仮想世界に取り残された下層の者たちの話ではないかという点である。いや、そんな話ではない。現代社会なのだ。世界の富の99%は、人口の1%の者たちによって占められていると言われる現代の者たちなのではないか。何をしても犬であることを辞めるどころか、それなりに愛されるペットという緩やかな隷属した地位に甘んじる者、これはまさしく膨大な帝国主義的な資本主義世界の中で、大企業のサービスや社会保障にどっぷりと浸かった、ブヨブヨに太りきった家畜の如き牙を抜かれ吠えることも忘れた現代人を描いているのではないか。そうだ。現代はすでに終末後の世界なのだ。このポストアポカリプス的な現代において、やり場のない自意識をスノーボールやマックスのように撫でながら、それでもペットという地位を辞めることは絶対にない主体性なき現代人の、細やかなる自己肯定の話こそ、このペットなのであると。

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投稿者: Hiyokomaru

こんちはっ! こっそり頑張るSOHOライター、ひよこ丸だよっ。 こう見えても、もう不惑のオジサンなんだ(汗 いつか立派な雄鳥ライターになるんだっ!

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