夏目漱石の“こころ”を読む。志賀直哉“亡き夏目先生に捧ぐ”を通して。

夏目漱石の代表作“こころ”を読む。もう10代の頃にこの作品を読んで以来、最初から最後まで読み直したことなんてあるかないかわからない。しかし、今、敢えて著作者の“こころ”を読んでみたいと思う。

まずは、その契機について話したいと思う。それは、つい先日、関西が誇る京阪電鉄特急列車エレガントサルーンこと、臙脂色の8000系に乗車したときのことであった。その車中、手持ち無沙汰な私は、その少し前に再読するために再購入した志賀直哉の代表作が収められている新潮社刊の短編集“小僧の神様・城の崎にて”を鞄から出して開いたときであった。あれ、阪急だったかな。

それはさておき、冒頭に収められているのは、かの有名な“亡き夏目先生に捧ぐ”である。なんとも挑発的な表題にして、なんとも挑発的な内容である。男尊女卑の残る社会で男根主義と軽いエリート意識をたらふくこさえたまま、大きくなった主人公がその視点から、若かりし頃の屈折した恋愛を綴った作品である。メインヒロインたる女性は、主人公からは隷属した境遇に甘んじる、よく言えば大人しい、主人公視点ではっきり言うと主体性なき女性として描かれている。というか、男根がヒエラルキー社会を理由にあしらわれている小説である。

まぁ、これがデビュー当時の鼻っ柱の強い“白樺派志賀直哉”の皮肉であり、自重のようなものなのだろう。時代は近代にはいり、相対主義的な風土も少なからず育まれた折である。あまり細かい文学史やイデオロギー闘争の面をかぶったエリートおじさん同士の喧嘩史は当方、細かく抑えていない。ただ概ね、皮肉だけではなく、自重もあるのだろうと思う。

武者小路実篤や芥川龍之介も交えて、エリートおじさんの近代人間関係論を掘り上げてもよいのだが、それでも肝心要の夏目漱石の“こころ”は読めないので、また今度にする。というのは、おそらく武者小路実篤以外、おそらく谷崎潤一郎や川端康成、森鴎外もだが、夏目漱石の作品が軽い女性差別なのでは?と言っているのではないかということだ。

今挙げた作家ほとんど芥川龍之介以外、女性差別入っているわけでから、どっこいどっこいなので、無罪放免にしてあげてもよいと思う。とはいっても、すとんと落ちない点がいくつかある。そもそも“こころ”で先生はメインヒロインに手を出したか出していないかである。実はこうした種の問題は、その点しかないはずである。そして、友人はなぜ死んだのか。さらに、先生を死に追いやったと思われる主人公のスパイ行為の、物語内と物語構成上において意味するものはなんなのか。そう、これこそ日本の忖度社会の権化の一角、夏目漱石が展開する近代150年に渡る大いなる計略、日本人総パラノイア計画そのものなのである。あぁ、真実などどこにもないのである。全てはハッタリと虚栄、そして、罪悪感や自重を装った卑屈なるインテリ風味、これこそ当時から現代に至る病の本質である。つかれた。私は迫害されるかもしれない。まぁ、でもふたりともしぬこたねーよな。

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投稿者: Hiyokomaru

こんちはっ! こっそり頑張るSOHOライター、ひよこ丸だよっ。 こう見えても、もう不惑のオジサンなんだ(汗 いつか立派な雄鳥ライターになるんだっ!

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