永遠に続きうる逡巡が高める決断の高貴さは果たして人間らしさを語るのか~“ロバート・ダウニー・Jr”と“本好きの下剋上”が当ブログに提示する不可思議な人間性の様相

当ブログがある2つの要因を基にして安定したアクセス数を叩き出している。“ロバート・ダウニー・Jr”と“本好きの下剋上”である。なぜなのか。なぜこの2つはそれほどまでに人を惹きつけるのか。この2つの共通点を探ることは非常にナンセンスである。インターネット上に席巻する多くの情報の一角を占める大衆作品の断片たる表徴に至らざる記号は、詮索癖へと凋落した現代の公教育の残滓たる知的欲求を満たそうと想像の翼を、その知的欲求いやさ詮索癖所有者の空っぽの器の中で無尽蔵に広げ、リヴァイアサンへと成長を遂げる。そう、そこは知的で合理的な世界ではない。人類社会に至らざる未開の地、ホッブズ曰く原始状態や闘争状態と銘打たれる形而上的な人工の世界である。それがラスコーやアルタミラ以来文明を永々と築き上げてきたはずの現生人類と呼ばれる表徴の子が至った必然の状態なのだ。要は、無思慮にいや失敬、広範な世界に生きるバラバラの個体によってなされた多様な選択に基づいてタイプされたはずのSEOキーワードなる因果と意図を判然としない1語以上の単語が織りなす目眩く憧れのロイヤリティ収入の世界が蹂躙する論理的整合性の残滓が、なんだかんだであまねく公教育の下で常識なるものを獲得したはずの極めて現生人類にとって恣意的な生命の歴史上最高の生命たる“ホモサピエンス“の最高の最終兵器たるそれぞれの”ワタシ“のその象徴たる機関である”脳”のなかで、精緻なそして客観的なお粗末すぎる論理的整合性を再構築する。そう、イメージと偏見に基づいた妄想である。まぁ、そういうことなんだと思う。だから、こちらも極めて論理的にかつ合理的にこの現象に対処させていただく。すなわち、人類の歴史である。

逡巡をめぐる冒険

逡巡とは決断をペンディングする状態を指すのであるからして、延々と続きうる絶望へとも至りうる地獄いや煉獄や賽の河原そのものである。しかし、此岸とは志願である。およそ個体の悩みとは個体差や結果の差異、そして有機物には避けて通れぬ“歳”である。あぁ、無情。私はパンが食べたかっただけなのだ。ヨーゼフ・Kのごとき逡巡こそ人間性の象徴であり、土壇場、踊り場である。この緞帳の降りぬラストシーンは時に昂り時に蕩けそして哀しみを驟雨のごとくにトップスターたるそれぞれのワタシを打ち付ける。逡巡の過程に沸き起こる目眩く喜怒哀楽はスポットライトを浴びる主役へと主体者を変貌させる。タイタニックのごとく延々と続くとラストシーンは第三者の嫌気と疲労を誘い、主役の孤独を一層際立たせ、緞帳はさらに降りない状態へとなる。絶望する方がましという状態が襲うこととなる。錯覚である。

そして、1つの点が象徴化されていく。これは主役にとっても、第三者にとっても必至の終幕として望まれていく。高貴なる待望の決断である。地獄を臨み続けていた此岸は拍手喝采とスタディングオベーションに包まれた輝かしき彼岸への道程をその宿命とする。そう、概ね高貴なる決断は報われないのだ。主役には新たなる絶望の淵が待ち受けていることとなる。

このようになると、悪いのは逡巡であるとされる。長きラストシーンがその象徴的な1点への役割を増大化させていく。これは虚構作品でなくとも表徴の問題へと収斂されていく。この予定調和を避ける方法は何か。おそらくないかもしれない。人生とはそういうものだ。いや、科学的な必然を予定調和や傾向としてあきらめつつ、それでも固有の経験として期待し続ける現世に現出された万物の宿命であろうか。

ここに2つの現世での事例を挙げよう。必至である事例に関してケーススタディするのは極めてナンセンスである。たかが知れている。およそ生き物は雄しべか雌しべかはたまた虫や風か。この事例を検証すること自体が1つのイニシエーションであり、ロールプレイである。虚しい予定調和のなかの1点であると思って泣いてくれ。

“ロバート・ダウニー・Jr”という“空(くう)”をめぐる因果

私は芝居論、演劇論にはトンと疎い。実際の人の表情や感情を読むのもだるい。多分、私の感情自身も表出が下手で不器用になっていることだと思う。だから、現代の映像コンテンツにおいて“巧い”とされる、ロバート・ダウニー・Jrを云々することはおそらく人類が営々と築き上げてきた方法論に対する冒涜ではないかと恐れている。

スタニスラフスキーシステムをその源流とするメソッドなる一子相伝の演技手法を体得した現代のブルース・リーいやさトニー・スタークことロバート・ダウニー・Jrは、イニシエーションすなわち追体験をして役に入り込み、真実の自然をインストールして役付けになり、虚空を見つめる酔狂な名物おじさんとしてインターネットコンテツ化した映画産業の主座たる現代ハリウッドのかわいいおじさんアイコンとして再降臨した。そう、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)によるアベンジャーズシリーズの中核コンテンツ、“アイアンマン”トリロジーである。

個人的には、ロバート・ダウニー・Jrと言えば、ガイ・リッチー版の“シャーロック・ホームズ”(2009)と“シャーロック・ホームズ シャドウゲーム”(2011)、そして、デビット・フィンチャーの“ゾディアック”(2007)が好きだ。特に、“ゾディアック”はメインがジェイク・ギレンホールとマーク・ラファロだから、抑制的ながら映えていてちょっとたまらなく好きだ。

ジェイク・ギレンホールと言えば、台湾出身であるアン・リー監督のゲイ映画“ブロークバックマウンテン”(2005)のお相手役でその名を馳せた如何にも癖のある役者だ。この映画も彼も嫌いじゃない。このブロークバックマウンテンは早逝したヒース・レジャーと中身ではなく生物学的にも男疑惑のあるアン・ハサウェイの映画でもある。すなわち、同じくゲイ映画で有名なガス・ヴァン・サント監督“マイ・プライベート・アイダホ”(1991)と否応なく重なる。主演は早逝したリバー・フェニックスであり、相手役は同じくトランスやガチゲイではないかとの疑惑が消えない天使キアヌ・リーブスである。あれ?そうである。ジェイク・ギレンホールは近年のダン・ギルロイ監督による2作品でもその癖の強さを開花させた小気味いい役者である。キモくて如何わしくて姑息なパパラッチを描いた“ナイトクローラー”では如何にも夜の森を這う芋虫野郎であった。同じく、“ベルベット・バズソー: 血塗られたギャラリー”でもキモかった。非常に嫌なやつであった。こんなにたまらなくキモいやつを静観できるというのは、日常においては皆無である。清々しいほどキモくて姑息なやつを落ち着いて鑑賞できる時間を与えてくれるのが、このジェイク・ギレンホールなのである。そのジェイク・ギレンホールをスターダムへと押し上げたのは、本当は2005年のブロークバックマウンテンなのだ。作品上でもあいつがいないと両脇はきれいすぎるのだ。悲しいかな、ヒース・レジャーの物語は映画のコンテクストを超えてしまっている。そして、悲しいかな、なぜだか知らないが、リバー・フェニックスがそれを助けている。さらに、悲しいのはキアヌ・リーブスとアン・ハサウェイが性を超越した天使ということだ。追い打ちは、ジャック・ニコルソン版ジョーカーを意識し克服したヒース・レジャー版ジョーカーを引き継ぎ、ジョーカーを演じたのがホアキン・フェニックスということだ。この因果はなにか。まるでジョディアック事件のようだ。この因果から解放したのが、キモい男を演じればよいのだと彼を暗に諭した2007年の“ゾディアック”なのだ。そう、ちょっとイっているのではないかと思われるぐらいにドストエフスキーの写真のような虚空を見つめる空の境地を見せてくれるロバート・ダウニー・Jrである。

因みに、このゾディアックのもうひとりの主演はマーク・ラファロである。アベンジャーズシリーズのファンなら、言わずもハルクことブルース・バナー役でお馴染みの濃ゆいおじさんである。このアベンジャーズ版ハルクにも悲しい話がある。このアベンジャーズシリーズは、マーベル・シネマティック・ユニバースという数多くの映画でひとつの世界観、時間軸を共有する正しく現代コンテンツである。ハイカルチャーという牙城をマルクス主義的なアンチテーゼ手法で破壊しきった人類はポストモダン的に偏在する1コンテンツ上のコンテクストを上品にポストモダン的に鑑賞すること是とするが故に、夢を見ることさえも忘れてしまった。それが及ぼしたものは全人類の科学信仰ならぬ、科学振興であった。この信仰が及ぼした振興の嵐のような侵攻はあらゆるフィールドの市場化へと繋がり、それはただの大衆資本主義への凋落でしかなかった。そして、再び大衆は夢を見ることとなった。最たるものは映画ではスター・ウォーズやディズニー、そして、文芸でも複数作品で同じ世界観を共有し合う作品群が数多く存在する。その嚆矢とはなにか。そう、アメコミ、マーベル・シネマティック・ユニバースなのだ。この必然性の海の中で時々あるのが、映画によって突然大人の事情で顔が変わることだ。実は、これは強豪であるDCコミック作品群で見られることなのだ。先に挙げたジョーカーも然りである。そして、さらには今のバットマンがベン・アフレックであるということだ。なんとクリスチャン・ベール版バットマンの最後であるクリストファー・ノーラン版バットマントリロジーから8年も経っているのだ。まじなんだよ。こうした事態がこの10年以上展開されているマーベル・シネマティック・ユニバースではそう多くはない?のだ。私が知らないだけかもしれないが……。しかし、これは事実である。ハルクが突然、インクレディブル・ハルク(2008)での面長で肌がテンプレ白人のエドワード・ノートンから、“アベンジャーズ”(2019)での少しラテンっぽさをその趣に匂わせる四角い顔のマーク・ラファロになったのだ。同じ事例は、“アイアンマン”(2007)から“アイアンマン2”(2010)、アイアンマン3“(2013)でのウォーマシンことトニーの親友であるローディ中佐役のドン・チードル化でも見られる。このマーク・ラファロを取り巻く因果は正しく悲しみである。ジェイク・ギレンホールでは作品は単発であった。さらには自らが主役の一角であることが多い。悲しいかな、マーベル・シネマティック・ユニバースでのハルク、そして、マーク・ラファロ版ハルクは一応の主要なキャストであるはずであるが、最も目立つはずの”インクレディブル・ハルク“では、彼ではなく”アメリカンヒストリーX“のエドワード・ノートンなのだ。まぁ、仕方ないのかもしれない。更生したネオナチ役という二面性には、流石に勝てないのかもしれない。このハルクの業をそのままマーク・ラファロは背負うこととなる。そして、彼もまた救われることとなる。そう、ロバート・ダウニー・Jrの”空“である。

ロバート・ダウニー・Jrのどこを見ているかわからない虚空を見つめたように対象を見据える、彼の“空(くう)”の表情を見ると、ドストエフスキーの写真を思い出す。言わずもがな帝政末期のロシアに降臨した病人でギャンブル狂いの天才おじさんである。文学者の写真といえば、一部の学者のそれ―アインシュタインとかカール・マルクスとかペルリマンの謎の素敵な笑顔である。彼らの笑顔は彼の業績とともに時間と空間を跳躍し続けることであろう―とは大違いな高慢ちきなプライド全開の顔写真が多いと決まっている。落書きされるのは当たり前なのだ。あいつらアホなのだ。誰とは言わん。しかし文学を近代化させた天才ギャブラーは違う。まずカメラ目線ではない。そして、その表情と視線の落とし方である。無なわけない、これは“空”なのだ。だって、あのフョードル・ドストエフスキーなのだから。まぁ、意外に酒が抜けないとか眠いとか何も考えてないだけとかかもしれないのだが。この天才?の“空”と通うものを感じるのが、ロバート・ダウニー・Jrの演技である。そもそも自然とはなにか。この疑念に対する言語を超越した解答を私たちのハートに送り届けてくれるのが、彼の自然いや、偏在する変わったおじさんの対象に対するシンプルな態度である。偏在とは大衆的かつ統計的に平均的というわけではないのだ。これは大衆資本主義にどっぷりと浸かりきってマトリックスから出られなくなった新たなる70億体のAIたちのそれとは大違いなのだ。なぜ私たちは日常や業務において多くのバグやヒューマンエラーを正したり、個体差、時間的空間的のみならずおよそ一般にありふれた差異と直面したりしながら、マトリックス上のデータが齎す平均やマスデータに囚われてしまうのか。これは偏に元データに接していないからなのかもしれない。それに気付かされるのが、ロバート・ダウニー・Jrの瞳である。

擦り切れた記号“シャーロック・ホームズ”を演じる人たち

“シャーロック・ホームズ”という20世紀消費されすぎたコンテンツが存在する。これもまた偏在する個を包摂するおばけコンテンツワールドとなっている。近年のシャーロック・ホームズはベネディクト・カンバーバッチを想起する人が多いかもしれない。小説を読んでももう高慢で病的でもなんだかんだ紳士的なジェレミー・ブレットではなく、明らかに奇人で情緒不安定なベネディクト・カンバーバッチが事件を解決してしまうかもしれない。ジェレミー・ブレットはほとんど悩まなかった。弱っていった。カンバーバッチもまたジェレミー・ブレットほどではないが悩まなかった。彼はむしろ人間の些末な現象で追われた人間で愛くるしい男であった。あまりにもワトソンを愛おしすぎた。作中もそう描いていたが、あれではゲイであり、精神疾患の人である。昔のことにも囚われ過ぎである。本国BBCのベネディクト・カンバーバッチ版“シャーロック”と同時期でありながら、なんと2作品も世界公開でき、ある程度の評価を勝ち得たのが、ロバート・ダウニー・Jr演じるガイ・リッチー版シャーロック・ホームズシリーズである。やはりロバート・ダウニー・Jrであった。いや、これは役者には失礼な表現である。正そう。やはり、シャーロック・ホームズであったと。逡巡と対象を見据える態度である。彼は人間なのだ。ジャンキーなのだ。そして、虚構ではあるがビクトリア朝時代の知識の偏った天才なのだ。記憶が確かならば、シャーロック・ホームズ史上最もかっこよく、最も剥げているジェームズ・ワトソンを演じたジュード・ロウは、この作品群こそが原作上でのシャーロック・ホームズの万能ぶりを如実に再現した作品ではないかと述懐していたように思う。正しくそう思う。皮肉も当時は未だカンバーバッチ版シャーロック無敵の時代であった。しかし、シリーズを重ねると、姉が無敵な弱い弟キャラになり、あまつさえ、サイコパスを装いつつ事件を解決するという、ちょっとかっこいいキャラになった。実は、シャーロック・ホームズは「警察ではない」は、原作上にも貫かれたスタンスである。しかし、カンバーバッチ版は現代版といてしまったがゆえにシャーロック・ホームズ兄弟は巨大な存在となってしまったのだ。そのため、制度上スルーとさせる兄と深層心理上の歪みを与えた姉の巨大さが必要となってしまった。さらに、不幸なことにビクトリア朝を舞台にした映画も制作した。これらがおそらく時間を超越してロバート・ダウニー・Jr版シャーロック・ホームズの犯罪を追求することを趣味とする無邪気さがたまたま社会正義となることがあり、それが作品になっただけなのだという謎の合点を与えてしまったのだ。そして、この謎の合点こそ、メディアミックス的同人的オタク的な紳士シャーロキアンの楽しみ方そのものなのだ。悲しいかな。カンバーバッチ版シャーロックは賢すぎた。説明し過ぎなのだ。あまりにも悲しい事態であった。TV版だからとは言え、シャーロックとワトソンの「俺たちの戦いはこれからだ」的なラストはちょっとしょぼすぎる。まぁ、「明日に向かって撃て」的なエンドが似合わなくて可愛くなるのがベネディクト・カンバーバッチと、ホビット族とTV版ファーゴで有名なマーティン・フリーマンの人間臭いいいところなのだろう。

最後にドーナツの中心点であるトニー・スタークの話をしておこう。これもまた同じである。比較対象は二面性をそのまま表すハルク役のマーク・ラファロや、作られた正義―正義とはそもそもトートロジーであり、“作られた正義”もまたトートロジーなのだが―に殉じるキャプテン・アメリカ役のクリス・エヴァンスであろうか。彼の飄々とした佇まいはまさにドーナツである。語るに如かずであろう。あえて語るのであれば、先に触れた尤もらしいものとはなにかである。そんなもの規模に関わらず不幸や厄災の前では詭弁や言い訳なのだ。その偏在する個の態度を見せているのが彼なのだ。そう、もう役名も俳優名もナンセンスである。“彼の芝居”である。この偏在する個の有り様を如実に再現する元?ジャンキーの大いなる“空”という不思議現象を説明する比較対象を私たちに提供してくれる現象がいる。そう、香月美夜著“本好きの下剋上”である。

“本好きの下剋上”が垣間見せる中世ファンタジーを超越する文化の処女性、すなわち文明の踊り場

先に断っておくが、私は実は原作未読のふしだらな1ファンである。アニメしかしらん。なんとも不届き者である。しかし、この香月美夜原作の“本好きの下剋上”は一筋縄ではいかない秀作である。まず、世界観である。本が珍品すぎるという点と、魔術が現世でパワーを与えるものとして実態を持っているという点以外は、そのままイタリア・ルネサンスの影響を受け、変貌しつつある神聖ローマ帝国という虚像の下に蠢くドイツ社会である。いや、識字率や印刷技術、そして、科学の未発達さを鑑みれば、そのまま当時の北方ルネサンスと科学の発達により変貌するヨーロッパそのものである。そして、注目すべきは、文化の矛先である。人間存在の再発見とは言っているが、ラファエロのごとき女の艶めかしい肢体によりキリスト教的物語を包み込むか、ミケランジェロのごとくアンチテーゼのように男性の隆々さにより聖書的な物語を屈服させるかが概ね多くの主流であり、これは鑑賞者の人間存在を昂ぶらせ硬直させるをその主な役割としていることは言わずもがなのことであった。さらに、レオナルド・ダ・ヴィンチに至っては知的にパズルのように性的にも宗教への対峙においてもアウフヘーベンな選択を採って絵画の前で鑑賞者を硬直させるに至る。この硬直は実は今でも続いている。

これが指し示すのは、北方ルネサンスのごとき当時の先進地域ないしはブルジョワに文化や宗教を手動された地域においては文化的所産の役割はまさに娯楽とし専ら機能することとなる。これは他の時代や地域でも普遍的に言えていて、比較的平時の時代や地域では文化的所産は娯楽として機能し、しすぎるあまりに皮肉なことに支配装置、洗脳装置としても機能してしまう。この構造が後進地域や平時として認識されていない場合では趣を異にする。その顕著な例が北方ルネサンス以後100年ぐらいの北イタリア以北の北方ルネサンス諸地域である。そう、それをコンテンツとして現出したのが“なろう系”なる数多ある作品群のなかに一際光る存在の香月美夜著“本好きの下剋上”である。

北方ルネサンス下のドイツとの相似はまことに美しきシークエンスである。世俗権力たる領邦国家にあたる政治権力を代表するのであろう貴族はローマ・カトリックにあたる神殿に膝を屈している状況となり、商売を生業とするベンノは神殿に逆らわず、マインの本に対するピュアな感情に基づく諸行動を支える存在となる。そう、すなわち、マインの技術は社会改革に活用されることとなり、改革の向く矛先はすなわち、世俗に執着しきった神殿そのものへと向かうこととなる。これは至って普通だと言うかもしれない。確かに活字とともに技術の象徴たる医療でも世のため人のためが一応の第一義であるが、残念ながら先端医療は金持ちの私生活アップデートバッチとなっている。これからヒューマノイドの草薙素子化に一役買うものと期待されるゲノムもクローン臓器もその道を行く公算が強い。南無三いやさアーメン。

しかし、これはいたって一般的な結果であり、今に始まった話ではない。当時のヨーロッパもそうであった。システィーナ礼拝堂を建築してぶっ飛ぶほどの壮大な天井画を彫刻家ミケランジェロに依頼し、結果“最後の審判”を世に送らせる切っ掛けをつくったロレンツォ・メディチもまたそうしたブルジョワの1人であろう。彼の子孫こそ宗教改革をヨーロッパ中に引き起こさせた例の免罪符に勤しんだレオ10世その人である。この構図は正に宗教や権力のみならず生死や信仰そのものが文化と商売に屈している証拠である。正直な話、“このチケットで天国に行けます”はちょっと面白い。メディチ家の商魂侮るなかれ。

果たしてマインは本と技術を基にして世俗化しすぎた宗教権力と対峙することとなる。その中のひとりとしてである。あぁ、マインちゃん、あなたはどこまでもマルティン・ルターなのだな。彼女の行動力を支えるものは偏に2つ目の生であるという現世に対する執着の無さから来る現世権力への恐怖心の無さと、前世から持っている本に対す偏執的な愛情である。これは彼女を決然的な行動に走らせることとなる。彼女を取り巻く世俗を支配する宗教権力への盲信を理解できないマインからすれば、彼女の本に対する愛情とそれに基づく行動はセカンドライフを有意味化する象徴であり、物質的な表徴への偏愛そのものである。知的でロジカルな人間にあってあるまじきこのアナログな表徴への愛情。いつの時代にも消えないこの哀愁漂う技術論争のコア。この知的だからこそ経験を経ているからこそ持っている自らの肌感覚を形成した指の先にあるツールこそ、今失われつつある紙の本なのだ。これは魔法である。これは宗教である。そう、彼らの同じなのだ。この哀愁ある構造を私たちに提示して、哀愁への拘泥にとどまらず、社会改革と日々の仕事でドタバタする佐々木倫子漫画を彷彿とさせるかのようなコメディタッチな物語へと変貌させる明るさは、“決断”の現れである。あぁ、そうだ。この作品は下剋上なのだ。マインよ、香月美夜よ、あなたは戦っているのだ。明るく、高貴に、そして、哀しみをその笑顔の下に隠しながら……。

終劇

この対照性。もう言うまい。そう、ハムレットのようにわかりやすい逡巡をするのではない。そう、ジュード・ロウは若い頃からそのような芝居をする役者であり、例のごとくガイ・リッチー版“シャーロック・ホームズ”でのワトソンは喧嘩っ早くて感情的な紳士なのだ。ロバート・ダウニー・Jrはそのようなわかりやすい逡巡をする役者ではない。空である。そして、香月美夜のマインは行動的である。なぜなら失われるから。では、ロバート・ダウニー・Jrにはどうなのであろうか。いや、ナンセンスである。役と中の人は違う。殊に、彼の芝居は色即是空を如実に表したような芝居であるからして。あぁ、皮肉だ。そう、これは虚構なのだ。西洋と東洋はインダス川とマリアナ海溝辺りを境にシュピーゲル化しているのかもしれない。

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