(続)ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズを邦画として再認識した場合、例の語り尽くされたテーマもやはり邦画のテーマとして認識されるべきである

前回、エヴァンゲリオン新劇場版:序と破について、作品の再構築(リビルド)が齎したのは極めてTVシリーズ的な世界を改めて提示することでその方法論の洗練に修練するという“序の東京物語化”と、続いてマンネリに陥ることなく、躍動感あるアクションと学園モノ的なノリをただただ追求する自己パロディ化とその先にやはり、それを電話と食事というエヴァンゲリオンがその物語創始よりキーファクターとしているツールにより“ポカポカした恋物語”へと修練させるという“歯が浮くほどの自己パロディの局地”を魅せたと私見を提示した。さらに、“序の東京物語化“と対照化させるなら、破は自己パロディの局地ではあるものの”破は『ベルリン、天使の詩』化“であると結論づけた。そして、三作目『Q』である。

『Q』を語る上で避けられない、『破』を『破』たらしめる終局の話

『破』はアスカの悲劇のヒロン化と綾波レイのメインヒロイン化が鮮明になりその終盤、すなわち例のテレビ版で言う『ゼルエル』の登場を迎えることとなる。使徒とはそもそもSF従来のファーストコンタクトを意味不明、問答無用にしかけてくる“コミュニケーション”メタファーな化け物である。毎回、『ん?この使徒の特徴と話の話題がリンクしているのかな?』と考えさせるが、どうも腑に落ちないことでいっぱいなのでモヤモヤしたまま物語を進めることとなる。使徒との戦いがすなわち異種なる生命体とのコミュニケーションなのだから、その戦い方がその当事者のコミュニケーションの有り様と連動しているのは概ね確かなようだ。だが、使徒全ての特徴がそのままメタファー的とは言えない。テレビ版からそんな感じである。

兎にも角にも、この新劇場版での第10使徒(テレビ版ゼルエル)との戦いは、この話を象徴する戦いである。従来から碇シンジはコミュニケーション下手で感情を時折一方的に爆発させてしまう嫌いがある。使徒戦でもまんまこれで基本は自己肯定感が低くある程度他者から肯定されると今度は増長甚だしく……。とまぁ、このあとが『破』中盤にあたり3号機の使徒乗っ取り事件が起きる。今度は拒絶しダミープラグにより使徒として殲滅されてしまい、そのあとと拒絶し続ける。とキャラクターの性格が使徒戦にそのまま反映されている。

で、問題はこの使徒はまんま力の拒絶のメタファー(というより、説明されている)であり、戦い方だけがシンジの性格の反映なだけでなく、使徒そのものがもう碇シンジの鏡のようになっている。こんな感じでこの物語構造は実はテレビ版から一貫して“言葉による安直な物語分析を拒否するデビット・リンチ的構造”を持っている。ただ、映像作品はもちろん物語というのは実はこういう『ん?』となるものばかりである。

なんで使徒との戦いがSF的なファーストコンタクトをベースしとしていながらも登場人物の感情を理解させる場面になっているという当たり前な理解でよいので、この数段落まんま不要ということになる。再び話を戻すと、とにかくこの第10使徒の登場とその戦闘で“ポカポカした恋物語”は叩き壊されることになる。前回『破』がポカポカした恋物語だと述べたが、アスカとレイ、ついでにこのサードインパクトなどカタストロフィこそ『破』を『破』たらしめているのであり、ポカポカした恋物語は壊すための材料に過ぎない。これもまた再構築された世界として明示された物語内で明確に(笑)暗示されている。そしてサードインパクト後の世界『Q』である。

エヴァンゲリオン新劇場版:Q、明示的に描かれるポストアポカリプスの世界、ジョージ・オーウェル、ディック、アシモフ……SFなのだ

そして『Q』である。『Q』はポストアポカリプス的なというとより、そのものな世界であり、もういっぱい人が死んだ世界である。これまでは壊れていながらもささやかに視聴者が微笑ましく思える文明社会が構築されていたが、もうほとんどなにもないらしい。これはエヴァンゲリオンシリーズでは、旧劇のラスト以来初である。テレビ版はそんな現実的なこと関係ないらしいので脇へおき、旧劇ラストもデビルマンのラストみたいなのでもうそんな古臭い小さな生命なんて関係ないんじゃないかって思うが二人以外映っていないので、期待したければいくらでも期待できる。やっと吹っ切れたか。そんな話が『Q』』である。

そもそもこの2010年代とはもう現代はポストアポカリプスなんじゃないかと思わせるフシのある時代である。話がそれるので辞めておくが、なんだかそんな時代状況なんじゃないか。Qもそれを表しているんじゃないかと思う。

すごい嫌われている。船に乗っている。船浮いてる。ゲンドウらと戦っている。学校とか街を守るとか関係ないらしい。こういう突拍子もない逆転しているんじゃないかと思わせるポストアポカリプスものといえば、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』だ。明示的にSF的なのだ。なんだかんだで恋愛、学園モノ、地球を守る的な話だったのに、全部すっ飛んでいる。電柱と電線を描くのが上手い人だけあってなにもない世界でもささやかな現代文明の象徴を表すのがうまい。しかし、みんな激おこのブンダーではなく、ゲンドウ側の体操着、ピアノ、綾波レイの部屋だ。管理された人たちの世界と言えばジョージ・オーウェルの『1984』だ。やぱっり明示的にSFを描いている。綾波レイもずっと人工の生命体らしくなっている。これはSFなのだ。AIがどんどんと開発され、なんとなく人工の生命体が作られたら、スター・トレックのデータ少佐や今の人気アイドルキズナアイみたいに感情のマネッコなんて簡単なんじゃないかって思わせる。この『Q』はそんなAI風味は描かない。明示的に意図的に従来SF型の人工生命体を描いたのだ。その証拠に非常に明確にわかりやすく綾波レイが命令、命令うるさい。『あぁ、アシモフだ。アイザック・アシモフだ。』諸君もわかると思う。これは明示的にSFを描いている。SFとはScience Fictionの意である。ここに挙げたのは、ディック、ジョージ・オーウェル、アシモフといった小説家になるが、SFであることには違いない。とにかくSFなのだ。

非常にざっくばらんで適当な話に聞こえるかもしれないが、明示的に再構築された世界は東京物語化を経て、カタストロフィの材料とは言え、自己パロディの局地“ポカポカした恋物語”を現出させる。ツクリモノの綾波レイとコミュニケーション障害ちっくな碇シンジやアスカが人らしくなっていくさまは正に“ベルリン、天使の詩”である。そして満を持して『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』はSFの王道、感情と管理の世界を描くポストアポカリプス世界へと降り立ち、やはりSFの王道、“人工生命体は紙の本を読むのか”的な有り様を実直に描くに至った。これは言わずもがな、エヴァシリーズを貫く“コミュニケーション障害の人たちが周りをイライラさせないためにはどうしたらいいか”的なテーマをそのまま表すことになっているが、その碇シンジがイライラする問題はもうどうでもいい。そういう人もいていいんですよ。いろいろ人いますから。そんなことよりもシリーズを通して綾波レイにフィーチャーすることで人の有り様を描くことになった。『あぁ、アシモフとディックを見ているんだ。いや、映像だから小津とヴィム・ヴェンダースだろうか。この映画を作った人たちはこうした人たちを見ているんじゃないか(ここテキトー)』

ともかく映画なのだ。ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズはようやっと映画になった。邦画なのだ。単純過ぎるアフォリズムでトートロジー過ぎる話ではあるが、やはりこれこそ新劇場版シリーズに贈る最適な言葉なのだ。

Follow me!

投稿者: Hiyokomaru

こんちはっ! こっそり頑張るSOHOライター、ひよこ丸だよっ。 こう見えても、もう不惑のオジサンなんだ(汗 いつか立派な雄鳥ライターになるんだっ!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

PAGE TOP