消極的な意味で確からしいはずであった漸進的なリベラルデモクラシーの、謎な合理的な実力主義社会に対する圧倒的な敗北感と、嘘つきに嘘つき呼ばわりされることの憤怒、ついでに庵野秀明一党の映画はやはりドイツ表現主義、すなわち映画の保守本流の継承者ではないか。ちなみにわたしは新作未視聴。

リベラルデモクラシーな人類保管計画

だと思う。

巷にあふれかえるリベラルデクラシーは、見事なまでの個人主義と追体験の徹底により、功利的に確からしい行動経済学的な、いわゆるランダムウォーク的な社会とその所産により、プラスチックボトルのような扱いを受けてしまっている。要は、多くの周縁をアウフヘーベン的に新たなオプションとして追加実装してしまうことで意味不明で膨大な謎のシステムへと変貌してしまった、多くの所産の成れの果て。例えば、日本の家電、複合素材であるはずだから多様な敬体であるはずおプラスチックの敵性国家化。およそこの三井の晩鐘、いやさ、反証はビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズを見ればわかる。WindowsOSなんて誰が見ても糞すぎるくらいに膨大で歪なシステムだし、世界を席巻し世界を変えたはずのアイツラの所産、いわゆるデジタルデバイスこそ、プラスチックの塊であるという事実。しかし、次に我々は圧倒的な敗北簡易より彼らリバタリアニズム的なて新たなるテクノクラート達に最大の敬礼を払わずにおられない。PCはリサイクルされる。そして、時代はFAANGらにより、OSからプラットフォーム化、クラウド化、デジタルトランスフォーメーションへとつながっていく。なにより、リベルデモクラシーは実は受益者負担を公共性という名のもとに破壊し尽くしてしまった。実はこの公共性というのは、ハーバーマス、北欧、アジアという反自由主義帝国と反マルクス・レーニン主義の名の元に産まれた、ご都合主義的なシステムなのだ。最もわかりやすい好例は、ブルーノ・タウトをその嚆矢とする小洒落た公営住宅である。誰か別の出資者による、『公共に供することは良いことだ』という全く正しい観念に基づいた税金をその資本とした、同じく誰か別の受益者、すなわち『仕方ないだろ。●●(貧乏、差別、病気)なんだから』という、これまた全く正しい観念に基づいた、悲しくもこの表現を使わざるをえない『乞食』的依存根性に対する、制度的に正しいお恵みの慢性化。これこそドイツであり、日本であった。死にたくなるぐらいの悲しい事実は、功利やマキャベリスティックでパワーポリティクス的な行動の連鎖により永々と創造的破壊を繰り返す圧倒的に大きい権力と、それに勝たねばならない不況の元の自由主義的行動する人物により、完膚なきまでに、ただの古臭い因習へと叩き落されてしまった。なぜ公共投資が駄目なのか。なぜメセナの方が良いのか。なぜCSRは胡散臭いのか。なぜ社会的責任投資がいいのか。もう死にたいのだ。なぜ、ここまで騒乱の予兆が炊き込みご飯の如くに社会をいい焼き加減にしているのに、反比例してついこないだまで危なっかしかった、ハマス、ムスリム、ベトナム、イスラエルが何もしない。そして帝国に吠えるまともな反帝国主義の代表例であった、マグリブや中米が急に黙った。そして、あいも変わらず不穏なのはロシアとその周辺と北朝鮮である。いや、ロシア周辺はなくなった。中国周辺なのだ。これまでアラビア半島とイスラエルを過剰に過保護にしてきた白人社会の謎の周辺のいじめは、北回帰線から南回帰線の間の、いわゆるプランテーション型社会の不穏化という一般的な傾向へと変貌した。少し前のことである。しかし,事此処に至りて状況は一変した。いや、そのように見えた。ロシアの仮想敵国化と朝鮮半島や香港の焦り、日本やドイツの存在しない自国民族への優生学的な偏愛への猛烈なるまでの皮肉的絶賛、まるで茶番な疑似冷戦を構築しているかのようである。みんな知っていることがある。米墨戦争、南北戦争や米西戦争により、覇権国へと変貌したセオドア・ルーズベルトは、中米への威圧は有名であるが、実は中国に軟化した。いまだ帝国主義側としてだ。このマキャベリスティックな行動こそアメリカ帝国の時代の幕開けであり、今なお変わらない100年あまりの現有する実行的覇権システム、対仏大同盟以来続くヘゲモニーならぬ変化する覇権システムの根幹である。あのころ、アメリカはかつてほどのイギリスとの不仲はおさまりつつも、いまだフランスよりの帝国であった。そして、日本を敵視していなかった。来たるべく混紡は日本とロアシに振り下ろされ、それら国家は崩壊した。この米中のヘゲモニーは、かれらの追体験的な美学的自己犠牲精神によりヘゲモニーではなくなる。おそらくだが、アメリカがイギリスを再認したしたのは、海外植民地の功利的な判断に基づく切り捨てにより、アメリカの真の朋友になった自由の戦士ナポレオンによるとその子分たちに制海権を守るべく突進し死んだからや、チャーチルの猛烈なるまでのであり、中国が容認されたのは、新しくは劉少奇が逃げながら死んだことや戦車の前に芝居がかりながら立ったことではないか。では、あの時、何が日露英ではなく、中国をセオドア・ルーズベルトに選ばせたのか。フィリピンやハワイを保有する彼らであるからして偽善ではない。ましてや、中国進出におくれたから友達になることで利益を得ようとするマキャベリスティックな判断だけではない。おそらく何かが当時のアメリカ人に中国を友と認識させ、それが今でもなお続いている。おそらく民衆暴動と、打算的に動く軍閥は一員であろう。

しかし、むしろ日本がやってしまったことではないか。そこからネガティブリスト的に考えられる、中国がしなかったことだ。今でもだ。なぜ中国は日本の表徴をパクるのか。すべては当時である。なぜ日本が古きものを捨て欧米化することはバナナと言われ、彼らが古い中国的民家を破壊したり、チャイナドレスにスリットをいれたり、毛沢東一派による断末魔の叫び的な、抑圧的な政治的権力による文化的漂白はむしろ欧米知識人から礼賛されてしまったのか。死にたくなるのだ。こうしなければ、我々はアメリカと中国という国家ではなく、市井の彼らにより圧迫されていくのだ。そして、彼らの人口と資本が今、圧倒的になり、その境界線は消えつつある。某ユダヤ人の、ホッブズをかばったパスカル的な近代合理主義とマキャベリズムを併せ持つ知性と、その妻であり、メセナと称せられる慈善的投資を担う某アジア系アメリカ人のうっすら見え隠れする美しき良心の一対化をその象徴とした、社会の破壊的再構築により、偏愛、無知、記号と表徴への過剰な阿りがすり潰されていく。すなわち、民族だ。もう炬燵でみかんを食べることは観光業になってしまうのか。あぁ、無情。我々は再構築されていく。E=MC^2や素粒子を知ったあのときと同じように。そう、奇しくも彼もユダヤ人であった。そして、20世紀前半である。棍棒は今も同じ質により、同じ人間により握られていると我々リベラルデモクラシーの者たちは覚悟したほうが良いのかも知れない。そういえば、正義感がありデキル男なレストレードであるセオドア・ルーズベルトと20世紀幕開け前後のデキル貴婦人を演じるダコタ・ファニングが共演するNetflixの「エイリアニスト」は面白かった。

ところで、庵野秀明一党による人類補完計画である。あの作品はたぶんあれでよかったのだ。保管か補完か。おそらくTV版でよかったのだ。悲しみを持ち保管に郷愁を感じ、それを諭そうとするリベラルで妥協的で実際には彼こそ謀略家であった加持リョウジは新しい時代には居場所はない的は判断はいらないのだ。それこそ演繹的な判断である。これは従来型の構造主義的に作品読む意味でもそうだし、社会的経済的歴史的にも完全にいなくなる必要はないのだ。しかし、消える社会がある。実際に時代が変わると、うまい具合にマイケル・ジャクソンは死に、レーガンはボケ、リベラル気取っていた二枚舌なハリウッド俳優は次々と強姦魔にされてしまった。これではジョディ・フォスターやアンジェリーナ・ジョリーが、屈折した映画を撮るわけである。しかし、撮った後ではもうその屈折した態度自体が事実である。

やはりあの場面が意味深だった理由がここにある。やはり彼らの作品がドイツ表現主義的である所以である。個人的にはあのハイヒールと電話を待つ彼女を、作品上にいて近いコンテクストで配置した彼らに敬意を表したい。ここで脱稿する。

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