ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズは邦画である

土曜以来のここ数日風邪で寝込んでいてほとんど何もできなかった。コロナではないかと今でも少し疑っているが、日数的に安心していいんじゃないかと思っている。そんなことはさておき、私はかねてより庵野秀明氏の作風は非常にテレビ的な映像作家だと思っていた。ストーリー的なところに作品の焦点を持っていかないところは日本のデビット・リンチと断じてもいいんじゃないか、いや、デビット・リンチがアメリカの庵野秀明なんじゃないかとも思っている。うん。でも、エヴァンゲリオン新劇場版は多少趣が違う。あえて言おう。エヴァンゲリオン新劇場版は邦画なんだと。

庵野秀明氏がTV版のエヴァンゲリオンにおいて、市川崑氏をリスペクトした作風を見せていることは説明を必要としないだろう。タイポグラフィーやTV版でシンジとアスカが一緒に踊って使徒を倒す話で真っ逆さまに両足を地表から突き出している風景はその代表的な証左とも言える。こうした点もさることながら、ストップモーション、クローズアップ、心象風景?らしい場面においてのおどろおどろしい演出はやはりコンタッチなのだろう。

エヴァンゲリオン新劇場版:序、改めて再構築するというプロトコルが実現した“エヴァの東京物語化”

ただ、エヴァンゲリオン新劇場版の序は、一言でいうと市川崑的な世界というよりもむしろ、小津安二郎の東京物語である。これはあらゆる意味でやむを得ないイニシエーション的な結果であると断ぜざるを得ない。それは、自主制作映画、ナウシカの原画、ふしぎの海のナディア、エヴァといった華々しいアニメクリエーターとしての経歴を持つ庵野秀明とその周辺のアニメ製作者たちが、ポストサードインパクトの余波を現実で受け止め、改めて原点たるエヴァンゲリオンを映画として制作するという、再構築(リビルド)というイニシエーションが必然的にそうさせるのだ。本当はこの点にこれ以上の説明は必要ないのだ。そう、あらためて言おう。“序は庵野秀明らの東京物語である”と。

そもそもテレビの総集編やリメイクものというのは陳腐化するものである。これは日本アニメに限らない。最近の例ではアメコミ映画ではなかろうか。もう何人のバットマンやスパイダーマン、ジョーカーを見たことであろうか。『私はそんなに歳をとっていない!』と聞かれてもいないのに画面に叫びたくなる。おっと、話が逸れてしまった。歳といえば、TV版のとき碇シンジと年齢の変わらぬ私はこの序の封切り時は葛城ミサトほどの年齢になってしまった。さらに逸れてしまった。

とまぁ、陳腐化した話というのは内在する体験や意味をイニシエーション的なプロトコルへと変質させ、それを受けとる情報の受け手はそのややもすると陳腐化しがちな表象に本来その機能として所有していない意味を感じさせ、あらぬ世界へと受け手を誘うこととなる。アリスである。

しかし、ちとこのエヴァンゲリオン新劇場版の序が違うのはオベッカ抜きによくできた映像だからというのが本当のところである。よくアニメ好きに言われる神作画というやつだろう。普通、話が面白いからと言っても、知っている話を何度も見るのは苦痛であるはずである。どこが違うのかと前のめりで見たのを覚えているが、そうでなくとも飽きない。なぜなのか。初回からヤシマ作戦頃までの話なんて、人に説明できるぐらいのレベルでよく覚えている。なぜ飽きないのか。

先に上げた作画もある。別に綾波レイ推しでもないが、好きになる。しかし、それも知っていては飽きるものなのだ。なぜ飽きないのか。そう、明示的に再構築された物語だからなのだ。これは何を意味するのか。これがエヴァンゲリオン新劇場版の東京物語化である。あの陳腐で嘘くさい、予定調和的な世界。よく知っている嫌いだけで私たちの世界。それは戦前から映像作家として生き抜いていた小津安二郎が戦後日本を意識的に再構築(リビルド)した物語、東京物語。半分すっとぼけな笠智衆と、嘘くさくて平坦な笑顔と話し方の原節子が織りなす、気持ちの悪いローアングルの世界は、その物語の構造上、そこしか安心する場所がないという絶望的な構造となっている。これはまさにファシズム後の日本である。すっとぼけているのである。なぜあの気持ちの悪いローアングルの芝居がかった芝居を描き出す小津安二郎が絶賛されるのか。そもそも褒めているのは、ヴィム・ベンダース、ジョゼッペ・トルナトーレといった同じような体験と視点を共有する旧枢軸国の映像作家である。そういうことである。明示的にすっとぼけるしかない世界を描き出した手腕を褒めているのである。

この予定調和的なすっとぼけを再構築するという行程のみをもってしてエヴァンゲリオン新劇場版の序を東京物語的と言うのではない。その内在である。いらいらする碇シンジはすっとぼけ笠智衆そのものであり、嘘くさい原節子はツクリモノの綾波レイそのものなのだ。人はこの作品を持ってして境界性人格障害の話だいうのだ。そもそも製作者首班は山口県宇部出身で繰り返しクレーターや戦災を描き出す。これは戦争そのものなのだ。もう見ている人もすっとぼけているのである。みんな笠智衆と原節子なのだ。知的なはずの斎藤環氏や氷川竜介氏を貶したくはないのだが、みんなすっとぼけているのである。

僕たちはこの数十年、セントラルドグマに近づけないまま、すっとぼけているのである。この物語、エヴァンゲリオン新劇場版:序はそれを示唆し続けているのだ。

エヴァンゲリオン新劇場版:破、歯が浮いてしまうほどの自己パロディのうちにある、歯の浮いたような天使の恋物語、『ベルリン、天使の詩』

序に続く物語、エヴァンゲリオン新劇場版:破は正に歯が浮いてしまうような自己パロディの物語だ。そもそも文化とはパロディである。ラスコーに壁画が描かれて以来、表象とはそれが指しているはずの対象を表す、仮りそめの記号である。そこには魂なんかないんだ。記号は生きて初めて魂を宿す。なんて歯が浮いてしまいそうなことを言わせるほど、破は歯が浮いてしまうような自己パロディの物語だ。東京物語の延長として始まった第2部は、真希波マリとアスカの「そうだ。これはロボットアニメだったのだ」と思い出させるような爽快な登場を口火に、ラブコメちっくな学園モノ的な怒涛のノリでテレビ版以上に気持ちのポカポカする展開で埋め尽くされていく。人付き合いに不慣れな人間たち同士による不器用な会話や理不尽なまでの自己犠牲は、テレビ版からのエヴァンゲリオンの定番ではあるが、“破”は『他人に食事を供する』ということをキーにこれがニヤニヤするような、アガペー的な自己犠牲を互いにしまくるポカポカ関係へと昇華されていく。これは同じくテレビ版からのキーアイテムである電話を物語の各所に配置し、顔を見せず、会話の全容を視聴者に見せない手法において、破壊の余韻を提示し、そして、例のごとく破壊することとなる。

このポカポカする恋物語は、テレビ版中盤の持つコメディちっくな展開のパロディそのものだと思うが、そんな当たり前のことはどうでもよいのだ。そもそもこのポカポカ物語は、東京物語の続きであり、綾波レイは作品上本当に作りものであり、そして何よりこの作品はフィクションなのだから全て作りごとなのだ。全部記号、表象、絵空事である。再構築された作品内において、すっとぼけたように同じ物語を見せた“東京物語化した序”に続く、意図的に色めき立たせた“破”は、作られた天使―作品内において狭義では綾波レイであるが……―が生き生きと息を芽吹かせた作品であった。そう、これはもしかしたらヴィム・ベンダースの『ベルリン、天使の詩』なのかもしれない。

(サービスはするつもりはないが、疲れたので次回に続く)

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投稿者: Hiyokomaru

こんちはっ! こっそり頑張るSOHOライター、ひよこ丸だよっ。 こう見えても、もう不惑のオジサンなんだ(汗 いつか立派な雄鳥ライターになるんだっ!

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