歴史は勝者によって演繹的に意義を修正され、現在と未来はそれを元に再構成される。静かなる今時大戦は、三度めにして真なる意味での“静かなる”革命を引き起こす。巨大化しきった77億総パラノイア時代の主体者なき“被害者意識の時代”に再び巻き起こる“グレゴール・ザムザ”的虚栄と偽善の労働者像と、東アジア的内的強制力に負けたふりをする卑屈なる群衆像の溝、これこそコロナ、経済紛争、いやさ、今時大戦の真髄である。

つい先日のことである。20世紀の至宝と言われるフランツ・カフカ著の“変身”を再読した。ほんの数時間のことであるが、意外な発見を散見するに至った。そう言えば、全て読みきったのはいつぶりであったろうか。自らの記憶力の至らなさもさることながら、愛読書と豪語しているにもかかわらず、恥ずかしながら、ラストシーンの記憶がおぼろげであった。老女や住み込みが登場するあたりからのグレゴール・ザムザの悲惨さにこころ奪われ、ラストの家族のシーンへの冷酷さに耐えかねてのことであろう。

と言いたいところであるが、やはりその小説の短さから、ほとんどはっきりに覚えていたというのが本当である。再発見は全く別の問題である。そもそも若かりし頃から、そのマジックリアリズム的な点、というより、グレゴール・ザムザの肩越し視点から語られるその描写の意図的なる不完全性にために、その摩訶不思議で、語彙的にわかりやすいはずなのにわかりづらい点は、この“変身”の醍醐味であり、この作品のみならず、フランツ・カフカの他の20世紀を代表する文学者と比肩して劣っていると言われる原因でもある。

その象徴は、グレゴール・ザムザ自身の“虫”化であるが、もうひとつは、緻密に語れられているようで全くわけがわからない彼らの“家”である。これも初読時から築く点ではあるものの、大した点ではないと高を括ってしまう点である。部屋の間取りやグレゴール・ザムザの位置関係もわからないのに、左隣も右隣もわかったものではない。扉がリビングに続いているのはわかるが、そこから玄関まで見通せるらしいという、広いのか狭いのかわからない点も意味不明である。部屋の構成もさることながら、物語の開始以降は虫になっているはずでパースペクティブな視点をグレゴール・ザムザは、その姿勢のとり方から喪失しているはずである。そして、さらに言えば、失っていないと語られている感覚器官も、話が通じていない点からグレゴール・ザムザの感覚器官の変質も疑って良いはずである。こうした点はこの物語の醍醐味である20世紀型労働者の悲喜劇性そのものであるが、今回、私が指摘したいのはその点ではない。

問題は、グレゴール・ザムザの人であった頃をベースにした認識に基づいて話が語られている点である。これも誰でもわかる点であるが、私が問題にしたいのは総論ではない。話の革新に2人の女性が存在する。ひとりは妹であり、物語のポジティブな面をなぜかしら背負って立っているメインヒロインである。これはこの変身がおそらく娯楽としても通用するように意図されていたのではないかという、意外な側面を物語る証左なのであるが、またしも問題はそっちではない。この実在の女性と同様に、もうひとり女性が存在する。ここで母と終盤にでてきて不思議にも妹同様に生き物として虫となったグレゴール・ザムザと接する老女と言いたいところであるが、彼女らはそれぞれ序盤と終盤の他者として存在するモブ的な位置づけのキャラクターである。妹とともにグレゴール・ザムザの希望となっている女性が物語の革新に存在する。それこそが20世紀至宝と言われる今作品の革新とも言える部分である。それはどこに飾られているかわからない雑誌の切り抜きの女性である。そう、妹がグレゴール・ザムザの加増の大黒柱としての虚栄そのものであるならば、もうひとりの切り抜きの女性は全く生きていない、ペラペラの存z内であるにもかかわらず、グレゴール・ザムザの性的で個人的な側面を一身に受ける女性なのである。ただ、生きていない。それもまた20世紀型労働者をその物語のモチーフとしたガランとした虚位の実存主義的な個の儚さを物語るに十分なメタファーであるが、またしも問題はそこではないと言いたい。問題は、彼女は日本語訳上、テーブルの側の壁に飾られている点である。日本語訳上、グレゴール・ザムザの部屋には、仕事机のようなものが置かれているはずである。テーブルは居間にあるはずである。たいてい、こうした言葉はどこの文明圏でも分けられているようで混在しているものである。どっちも“つくえ”である。だから、裸ではないとは言え、婦人の写真は個人的なものであるし、序盤時の説明のされ方からてっきりグレゴール・ザムザの部屋のなかにあると思ってしまうものであると私は思う。少なくとも私は、である。ここで問題が起きる。母と妹が中盤の段で自らの仕事的、仕分け的な判断からグレゴール・ザムザの部屋を片付けようとする。このちゃんばらの段で“机”が運ばれる。ここで問題がおきる。直後にグレゴール・ザムザは、思い余って婦人の写真の防衛に出る。ここである。なんとこの物語の終盤と序盤に話さられたピークの一角が訪れる。婦人の写真を防衛に出たグレゴール・ザムザは、父に部屋へ乱暴に戻され、物語はその悲喜劇性を増すことになるのだが、グレゴール・ザムザは、この折に父の心を斟酌して“部屋へ戻ろう”としたらしい。これはフランツ・カフカの“変身”の最も面白いところである。仮に写真が部屋のなかにあったのなら、一家の悶着を片付けるために一度、居間に出て、部屋に戻る振りにしたことになる。このころのグレゴール・ザムザは、序盤に比して可動性を獲得しているが、人前ではあまり動かないばかりか、壁のぼりなど虫的な動きにのみその可動性を発揮できるらしい。そのため、方向転換が実に苦手らしい。まぁ、なんともフランツ・カフカらしいメタファー?なのだが、これも愛読者である私は涙を飲んでドスルーする。最も面白いのは、もうひとつの可能性とそれを合わせのんだ末の仮説である。もうひとつは、婦人の写真が居間にあるとするなら、婦人の写真ほしさに恐ろしいスピードで出たことになる。これは物語終盤でグレゴール・ザムザの伝わらない家族愛として表出されることになり、やはり物語の悲喜劇性の一端として現れている。まぁ、やはりコメディである。

それよりも、このグレゴール・ザムザは、心底虚栄心の強い労働者であるという点である。写真が居間にあるなら、この男は、婦人写真の防衛に出たのもさることながら、父がしゃしゃり出てきたシーンにいて、小説のト書きにも嘘をついて、父の面目を立たせるためと自分に嘘を言って、部屋から居間に出てきて、また部屋に戻る振りをした可能性があるのだ、なんと卑屈。これである。これこそ、20世紀以降問題となるビューロクラシーやオートメーション、そして、ファシズムや同調圧力に負けきって自分に嘘をついて虚栄心から“普通”を装いつつ、そこから少しずらしてまた“普通”を装う振りをするという駄目労働者そのものなのである。あぁ、悲喜劇。これでは家族愛が妹には伝わらないわけである。あぁ、悲しき。

とまぁ、フランツ・カフカの“変身”がマジックリアリズムや人の無意識性に関する方法論化を試みているようなのに、ガルシア・マルケスやプルーストのように知性として比肩されないのは、やはり対象が労働者の卑屈さというブラック・コメディでしかないという悲しさにあるではと思う。

だがである。これこそ“城”ともにフランツ・カフカの作品が逆説的に20世紀的寓話としt普遍性を醸し出してしまうという破壊力である。実は、これこそ悲しいから21世紀を迎えた我々である。

この21世紀を迎えた現在、実はお気づきかもしれないが、我々は三度めの“静かなる革命(戦争)”を迎えている。第二次大戦以降、帝国主義になりたい逆ギレファシズムの敗北、植民地政策の行き詰まり、モータリゼーションやレーダーなど移動通信の発達は、冷戦を引き起こした。そして、その終局は、やはり逆ギレテロリスト、保護主義や共産主義の行き詰まり、そして、インターネット、衛星などの通信の発達から、IT革命をはじめとした“サイレントレボリューション”を引き起こした。そして、実は、これらは全く静かでも冷たくもなかった。冷戦には世界中で開発競争と代理戦争が行われ、IT革命も労働や資本の流動性を高めすぎて全く静かではなかった。情報だらけでうるさくなった。実にうるさくなった。

しかし、この期に及んで世界はまた“静かな戦い”を引きこそうとしている。というより、今回はそう銘打ってはいないが、本当に静かな戦いになっている。全く気付いてないのではと疑いたくなるが、おそらくみんな知っている戦いが起きている。みんなグーグルとアイフォンを使っている。そう、みんな同じアルゴリズムに侵されている。かろうじてEC、キャリア、重工業などがローカライズ化されているが、それもIT化の進展でみんな多分FAANGか他のハイテク企業の技術を使っている。そのうえで起きている米中冷戦とはなにか。それは米ソ冷戦の兌換ではなく、トルデシリャス条約、ウィーン体制、ベルサイユ体制、ヤルタやカイロ会談で行われた大企業による世界分割そのものである。そして、再び我々はいないのだ。しかし、我々はあるものはインテリとして、あるものはエリートとして、あるものは勤労者として、あるものはインフルエンサーとして、関わっているように自らを装って生きている。まさに77億総グレゴール・ザムザ状態が起きている。そして、茶番のように起きたイランだたきの直後に起きたのが、今時大戦である。インフルエンサーならぬインフルエンザである。もう本当に悲喜劇である。マジでおそらくであるが実在なき首班はインフルエンサ(ザ)が悪いが、言うほどひとつひとつの症例は大して悪くはないし重くもないと言いたいであろう。あるものは神というだろう。あるものは神性というだろう。あるものは帰納的な結果やバタフライエフェクトというだろう。そして、あるものは言うだろう。これこそ今時大戦である。これは陰謀である。誰かは言うまい。実在するかもしれない実行犯を責めても今時大戦の解決にはならないだろう。ただただ我々は自らの身動きしにくくなった体をガサガサと動かかし、自己愛と博愛の間で揺れ続けるのだ。

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投稿者: Hiyokomaru

こんちはっ! こっそり頑張るSOHOライター、ひよこ丸だよっ。 こう見えても、もう不惑のオジサンなんだ(汗 いつか立派な雄鳥ライターになるんだっ!

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