ガンダムシリーズにおける、盛り沢山なSFファンタジー性のメイソウ

ガンダムシリーズにおける、盛り沢山なSFファンタジー性の迷走。ガンダムシリーズの多くが死にたいくらいに残念なのは、商業主義的に自己模倣を繰り返さざるを得ないお決まりのことである。けれども、その中でも何年経っても色褪せない評価を得ている作品もある。ファーストガンダムは当然だが、いや、これが問題なのが、他にはそれを意識したν(ニュー)ガンダム、ポケットの中の戦争であろう。これは曲線的でいて無骨なアニメらしいロボットを出し、王道アニメ的世界観やデザイン、演出を凝らしている。秀逸なのは、作品世界の中の人とそれを見る外の人も戦争や兵器に少し惹かれているという点を隠さない点にある。実際にも戦争や是正されるべき状態が続くと、それは社会の一要素となる。こうなると、ガンダムシリーズが一貫して唱えるような「大人はわかってない」という、マララちゃんや香港の雨傘運動、昔慰霊祭で何か読み上げて話題となった沖縄の女学生みたいな子が増えつつも、彼らだけとは言えないのが現実である。紛争や社会悪、問題、そして何より自分(ないしは自分たち)の自己栄達や生活改善のために最も社会に認められている手段を活用するようになる。欺瞞として大人たちが言っていた国家のために、革命のためにを大人も子供も地で行くようになるのである。これは平和な時代や国で起こる、「あの産業が来るからその職業に就く」のと同じである。この紛争国の欺瞞、暴力革命やイスラム、某帝国の嘘を逆説的に描ききったのが実はヲタ向け、ファン向けとして作られたν(ニュー)ガンダムとポケットの中の戦争なのだという悲劇なのだ。ピュアに兵器への愛情を隠さないシャアやアムロ、そして何よりアル君だ。

しかし、この欺瞞だって実際のセリフでファーストガンダムだって述べられている。「アイツラ嘘つきだ」と大人であるブライトが怒鳴るも、子供が白けているという名場面である。断っておくが、一般の反戦運動や、マララちゃん、香港の雨傘運動を欺瞞と言っているのではない。我々を含め、全体の構造が欺瞞なのだ。だから、彼女たちは眩しくも正しいのだ。このマララちゃん、香港の雨傘運動的な顔にこだわって成功したのが、もう一つのガンダムの顔である近年の福井晴敏的なガンダムである。こうした運動は得てして左翼的であり、階級闘争である。が、ご存知の通り、ガンダムUCでは金持ちの隠し子と、ザビ家の遺児ミネバである。なんだこれは。あいつは何が言いたいのだ。最も感情移入しやすいキャラクターが徳川家康やエリザベスのような苦労人のガチセレブだった。

そして、もうひとつの大きなガンダムの革新部分だ。この部分で最大の残念が起きる。ガンダムシリーズは、ファーストガンダムから一貫して―いや、富野由悠季作品全般なのだが―宇宙に行って重力から解放されると素敵な人になれるよ٩(♡ε♡ )۶と唱え続けている。が、ヲタ向けνガンダムではサイコフレームのうねりが人の感情のうねりと相関していて、深くはわからんが素敵なことが起きるのだと、SFファンタジー的にシンプルに理屈を再構築しているのだ。特に、ν(ニュー)ガンダムでは貧困者に讃えられるシャアを出すことで「そういうことだよね」となっている反面、シャアは戦後のことをほとんど考えていないばかりか、兵士をやたらと鼓舞している。このように私怨をこじらせた大衆先導者的としてシャアを描くことで、お決まり人の革新論はナチの選民思想そのものとより一層重なることとなる。ザビ家やジオンの被害者意識からくる選民思想を物語において如実に描いたのは、個人的にはファーストガンダムのザビ家よりも上手いのではないかと思っている。

ガンダムUCと最新のナラティブでは、これらの要素があまり見えない。どちらでも壮大な政治スキャンダルを物語の大枠に据えることで、フル・フロンタル一党はいただけないが、ジオンの残党は悪くないとなっている。さらに、かるく“人の革新論”に戻っている。これでは資本主義とそれに基づく科学技術氾濫の批判どころか、科学思考そのものへの挑戦となっている。

こんなことになるのは、ガンダムにおいて、このジャンルの話がエリートやインテリ批判とごっちゃになるからである。これも実は革命騒ぎの騒乱でよくある一幕であるが、旧時代のエリートという正に非科学的、非実証的な階級への批判である。あー、恐ろしい。これでは世界中、自動車免許を老人が返還しなきゃいけないわけである。

が、がである。これらの要素を詰め込むことに成功したガンダムが一つ存在する。それが近年の鉄血のオルフェンズである。いやー、本当なんです。人の革新論的なものは言及されてないが、孤軍奮闘して俺つえーしてくれる。少年兵に対する差別的な人体改造と、兄貴と子分の絆みたいなもので強くなっているらしい。当時も新選組のようだと言われていたが、本当に理念と絆にすがり孤軍奮闘し散った三国志や新選組を彷彿とさせる作品であった。で、太陽にほえろみたいに兄貴が死んで終わる。やっぱり土方でも孔明でもダメだったんだ。(´Д⊂グスンである。あれ、終わりに希望あったっけ?

それはさておき、ガンダムシリーズである。なんとも悲しいのだ。一体なにが良かったんだ。ワタシ達はそれを自己問答しつつ、今日もどこかのガンヲタがインターネットや円盤で、いや、もしかすると、VHSやレーザーディスクで研究していることだろうと思う。やっぱりイデオンなんだよ。あのひと、ニュータイプとかバイストンウェルとか、空想論に嵌っているから、そういうのがしっくりすとんと(ならないんだけど)なっているのは、イデオン一作なんだよ。多分、インド哲学とか仏教なんだと思う。いろんなものを等価というか、空というか、そういうふうに見ていて、つまるとこ、輪廻なんじゃないだろうか。いや、ただの集団自殺を先導するカルトかもしれない。そうすると、福井晴敏が正しいわけだが。あー、そうなんだよ。だから、福井晴敏ガンダムが一番性に合うんだろうなぁ。あのひとの思想には。ニュータイプを装う人間を呪術まがいの人間として描いていましたね。いや、そのものなんですよね。主要なガンダムシリーズと福井晴敏ガンダムはこれなんですよ。何いってんでしょうね。

そういえば、ポケットの中の戦争やνガンダムではショウアップされた戦争を強調していましたね。あれも他じゃほとんどない。特にポケットの中の戦争では外の人の無関心と、アルくんの主観的な感情移入が特徴的でした。そうなんですよ。νガンダムではクエスはきちっとインド宗教にかぶれた子でした。もうこれなんですよ。人類はインド哲学に惹かれ続けるんです。ガンダムを救ったのは悔しいかなガイナックスなんですよ。いや、インド哲学なんです。最近ではオルフェンズやオリジンもあるんでしょう。インド哲学に触れなかったのが非常に残念ですね。でも、オリジンのシャアは目的意識を持った革命戦士みたいに描いていました。やはり必然なのかもしれません。他にも受けた作品あるかもしれません。ここなんですよ。ここ。福井晴敏シリーズでは両方に気遣ってる気がします。福井晴敏自身がフル・フロンタルやナラティブの呪術師みたいな心境なんじゃないでしょうか。可愛そうです。頑張って!

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