“今年で○歳です”が齎す時間的空間的に絶対的な虚構性ある桃源郷

今年で○歳です”という表現をよく耳にする。年齢というのは、毎年特定の日付、限定して言うと午前零時零分になった時点でひとつ持っている数字にプラスされる仕組みである。だから、正確に言うと、常に満何歳何ヶ月何日何時間何分何秒となるはずである。なんとも面倒くさいくだらない数値である。だから、“今年で何歳です”と言うのが便利なように聞こえる。あと数ヶ月で歳を重ねるのだからその時の満年齢を伝えるのでなく、“今年で”と伝えるのだ。

しかし、一年のうち後半、特に10月、11月、12月に産まれた者はどうすればよいのか。この問題は早生まれの者に当てはまるように思われがちだが、そんなことどうでも良い。問題は二桁月産まれの者である。この者たちは一年のうち大部分を“今年で”と言って、ほぼ一年満年齢を偽るという年齢詐称をしてしまうか、さもなければ、一年のうち大部分を満年齢で伝えることで生まれ年をややもされると勘違いされるという問題を慢性的に抱え込んでいる。

どうしてこうなった。かくいう私は11月29日生まれである。“今年で”という表現を使用するものなら、一年の殆どを満年齢で言えない。満年齢遵守で言うと、一年のほとんどを同い年の人より一歳マイナスで言うことになってしまう。私は若い振りをしているのか。他者に若く見せようとしているのか。これは自意識なのか。なんとも釈然としない問題である。

この問題を処理するために、客観的対象が必要である。いや、本来は私が正しいのだから、満何歳何ヶ月ですと突き通せば良いのだが、何ヶ月と都度都度言うのは、聞いていないと人にもWEBサイトの入力フォームにも突き放されてしまうのが落ちであろう。あぁ、なぜなんだ。満年齢でいいじゃないか。

このような感情的問題を捨象するためにも客観的な対象、類似現象を検証する必要がある。ひとつは先程スルーした早生まれ問題である。もうひとつは古来日本にある年齢の数え方である“数え年”と、現代の西洋式満年齢問題である。

ひとつめの問題、早生まれ問題である。これはそもそも日本の事業年度や学校年度が春からということに起因している。これによって、1月から3月生まれの者たちは他の同年生まれよりも一事業年度早い年度に一労働力としてなんと6歳から組み込まれることになる。この東洋を覆う深い抑圧の闇も問題であるが、それはさておき、早生まれの彼ら彼女らはなんと“今年で”ということがほとんどないのだ。その代わり、スポーツや学業において早くから頭角を出すのが難しいとされるが、スポーツはさておき私は子供の頃から冬生まれの神童である。そんな者どうとでもなる。問題は一年“今年で”問題と袖すり合わせる必要が皆無ということである。これは一年のうち前半に生まれているものの多くに当てはまるが、この者たちは多少違和感を抱いていることと思う。やはり私は正しい。“今年で”いらない。満年齢でいい。勝手に誤解すればいいじゃないか。もう子供じゃないんだから、何年生なんてラベル必要ない。

そして、この問題の根幹であるもうひとつの問題である。“今年で”は数え年の残滓である。満年齢輸入と歪んだ数え年文化の因習という構図は、この国の、いや、西洋文明を輸入した多くの国がその根底に抱える共有の問題と同根であると思う。“民主主義”、“資本主義”、“ヒューマニズム”は、西洋文明輸入以前に存在したのかという問題である。数え年文化をその雰囲気だけを残し、満年齢を無理やり数え年化して、民族全てに“今年で”言わせる同調圧力は正に、“民主主義(資本主義、ヒューマニズム)は西洋文明輸入以前には存在しない”というファシスト地味たファナティックな極右集団の修辞法的な妄言と全く同じである。すなわち、満年齢は誕生日が存在する限り存在する。むしろ数え年というのは、誕生日を喪失させるものである。ここに問題の本質が存在する。これは何を意味するのか。

西洋を礼賛するのではない。ワキガでハゲの多い黒人やアラブの宗教文化に追われ続けているエセヒューマニストどもに媚びを売るつもりはない。これは本心ではないが、かの“民主主義(資本主義、ヒューマニズム)は西洋文明輸入以前には存在しない”というキチガイじみた妄言を言うものをいなすためのものである。許されたい。

そもそも人からその産まれた瞬間の特殊さを奪うというのは、その人の特殊性を普遍化一般化するものである。皆同じというやつだ。これは実は人間存在の普遍化という意味で一考の価値ある手法なのだ。生の喜びは尊いかもしれないが、それそのものであれば、数え年として皆で祝福すれば、合理的だし、平等観も植え付けられる。ひとりひとり横行なパーティーなんて経済格差や家庭状況の問題を際立たせるだけである。

しかし、しかしである。数え年でも私のように年末産まれの者が確実にいるはずである。その者はやはり一年の最初に祝われてしまうのか。それはあまりにも残酷ではないか。形式主義とはかくも残酷なものなのか。

数え年というのは、かくも残酷に一年余もの時間を捨象してしまうのか。物事を整理するときには、些末な情報は捨象してしまえば簡単である。図形はユークリッド幾何学、物理学はニュートン力学、経済は実力主義的で理想主義的な資本主義、だから社会は功利主義。だから貧乏人が増えるとテンプレ大衆主義に陥って、全部足して世界をゲームのように考える頭の中桃源郷なファシストが増える。こんなものわかんないやつが言葉シャベルな。全ては“今年で”を強要しないことから始まる。個の時間的空間的な詳細を捨象する行為である。どの学年世代であることがどれだけの意味を持つのか。何年何月何日生まれ。ここまでがひとつの情報である。個々人多くの情報があるのではないか。価値を置かないスタンスもひとつの情報である。社会というのは、徹底して人の情報をかくのごとく捨象し形式化し時間的空間的にパッケージング化された労働商品としてしまうのだ。

“今年で”を言わない。使わない。個を見る。詳細がそのバックボーンにあるであろう個に寄り添う。嫌ならさようなら。全ては“今年で”を辞めることから始まるのだ。

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